【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-03 虚偽じゃない言葉

エピソードの総文字数=7,047文字

 クリニックビル3階。

 葉凪の操る蔓から解放された英司が投げ出されるように出現したのはその片隅だった。

このビル、確か5階建てだったよな……。
 英司は記憶を手繰ってクリニックビルの構造を思い浮かべた。

 団地内の住人に対する一通りの医療行為を行えるよう作られたもので、内科、外科、小児科はもちろん、歯科、眼科、産婦人科もあった。総合病院という位置付けとは少し違って、個人経営の医院が同じビルに集合しているという形態。受付と薬局はどの医院も共通していて、1階にある広いホールが待合室として利用されていた。

 当時の大間団地はまだ新しく、入居者の多くは若い夫婦。すでに少子化は社会問題化していたが、大間団地に限ってはそれも他人事のようだった。病院のホールにもいつも子供の姿があった。お腹の大きな若い母親が、よちよち歩きの子供の手を引いて診察に訪れる姿を、英司も日常的に目にしていた。

お子さんは、その辺の兄ちゃんやお姉ちゃんに任せて遊ばせておけば大丈夫よ。
 病院の職員たちもよくそんな助言をしていた。
俺も子守りさせられたもんな……。
 母親はみんな、いたずら盛りの小さな子供をホールに残して診察室に入って行った。

 ホールには職員が常駐していたし、受付がしっかり機能していたから子供が勝手に外へ出て行ってしまうようなこともなかった。

 当時、まだ団地は開発の途中で、一歩敷地を離れればもとの沼地ばかりという有様。このクリニックの患者は団地の住人にほぼ限定されていた。そういう安心感もあったのだろう。おおらかなものだった。

 団地崩壊事故の直前――小学3年生だった英司も、小さな子供に絵本を読んでやったり、紙飛行機を作ってやったりしたものだ。

3階から上は確か入院病棟だった。3階って……産婦人科だったのか。
 薄暗い中であたりを見回した。壁面に残る表示をなんとか読み取ることができる。

 大間団地に住んでいた当時、英司は何度となく小児科の世話になったし、歯科と眼科にも行ったことがある。だが入院の経験はなく、ましてや産婦人科の入院病棟であったこのフロアは無縁の場所だった。

 この薄暗いフロアがどんな構造であったのか見当もつかなかった。

 入院といっても、それほど重症の患者を受け入れるようにはなっていなかったはずだ。産婦人科なら通常の出産のための入院、内科や外科でも比較的軽度の疾病と検査のための入院がせいぜいだったと思える。重症患者や特殊な治療が必要になるような患者は市内の総合病院へ転院となるのが常だった。当時真新しかったこの病院は最新の機材を取り入れていたが、団地の住人にとっての『近所の病院』を超えるものではなかったのだ。

誰か……いるな。
 英司は暗がりの先に妖怪の気配を感じていた。

 用心深くその気配へと近づいて行く。下手に動けば危険だ……とも思えたが、ここで待っていても事態が好転するいう期待も持てなかった。今はなんとか状況を確認して果歩や篤志と合流したい。

葉凪か?

それとも……。

 茂の話によれば、もうひとり――4人目のプレイヤーがいるはずだ。あるいは威月たちのゲームとは無関係な妖怪がこのクリニックビルに入り込んでいるとも考えられる。

 英司はまだ手のひらに掴んだままだったコンクリート片を軽く投げ上げた。顔の前でキャッチし、それからアンダースローの体勢で闇に包まれている廊下の奥へと投げる。さっき葉凪の蔓に取り囲まれて放ったときとは段違いに大きな炎がボッと勢い良く石つぶてを包んで燃え上がり、暗がりを一瞬照らして床に落ちた。あの蔓の存在さえなければ以前と変わらないレベルの炎を〈呼ぶ〉ことができるようだ。

果歩の呼ぶ王牙に比べれば、ちっぽけなモンか。

フクスケさんの言葉を借りれば安物のライターってところだな。

 だがとりあえず、英司にとっては他に戦う術はない。あからさまな敵を持っている相手でなければ、妖怪を威嚇する程度の力はあるはずだった。


 廊下に面して、いくつも扉があった。多分病室だった部屋だろう。壁にはおおきなひび割れがいくつもできていたが、崩れてはいない。だがさすがに英司も扉を開けて中を覗いてみようという気分にはなれなかった。

 クリニックのビルは被害のもっとも大きかった1号棟からは少し離れた場所にあり、地中に埋もれたのは救助隊による救出が行われた後の2度目、3度目の地すべりによるものだという記録を英司は中学生の頃に呼んだことがある。事故は深夜に起こったため外来の患者や見舞い客はいなかったし、当時入院していた患者も移動したあとで、生き埋めになった者はいないはずだ。だがそれでも……あの生々しい事故の記憶を呼び起こさせるものからは少しでも目をそむけていたかった。

 英司はゆっくりと足を進めた。

 近づくにつれ、その気配はひりひりと肌をすりむくような不快感を伴うものとなっていた。

 扉は全部で10室分あった。規則的に続いたその扉が終わったところは小さなホールになっていて、廊下に面して大きな開口部を設けた部屋がふたつ、向かい合わせに作られている。一方はナースステーション、もう一方には新生児室というプレートがとりつけられていて、床一面に粉砕されたガラスが散らばっていた。おそらくその開口部はもとはガラス張りだったのだろう。

 新生児室の方を覗きこむようにして、人影が立ちすくんでいる。

 英司の感じた気配は――その人影のものに間違いなかった。

フクスケさん……?

 英司の感じた気配は--その人影のものに間違いなかった。

 新生児室の奥にじっと視線を投げて、人影が立ちすくんでいる。英司が声をかけてもほとんど反応らしいものはない。


(なんか、印象違うな。フクスケさんってより、威月に近い……?)
そっち……誰かいるのか?
――〈ジャングルに虎がいる〉ってどういう意味なんでしょうね。
 英司の言葉には答えず、茂はぼそぼそと言葉を発した。

 英司に向かって質問を投げかけたようでもあり、ただの独り言のでしかないようにも聞こえる。

意味……?
 英司は茂のすぐそばまで歩み寄り、新生児室の奥に目を向けた。

 ……が、そこには注視に値するようなものは何もなかった。窓を破って押し寄せた土砂が部屋の半分以上を埋め尽くし、赤ん坊を寝かせていたのだろうベッドが乱雑に投げ出されたオモチャのように散らばっているだけだ。

オウムが不思議がるでしょう? 人間はなぜいつも同じ言葉を言うのだろう……と。あのお伽話を聞いた時、私もあのオウムと同じように不思議に思ったんです。

ジャングルに虎がいるから倒しに行く。

ジャングルに虎がいるから逃げる。

――なぜ人間はそう言わなかったんでしょう?

『ジャングルに虎がいる』なんて、おそらく周知の事実だったはずなのに……。

さあね。
 英司はそっけなく言って新生児室に背を向けるように座りこみ、壁に背中を預けた。

 茂が新生児室を見つめて、何を思っていたのか。英司が考えていたのはむしろそちらのほうだ。

 いや、茂ではなく、威月が……なのかもしれないが。

やつらは虎を倒したかったわけじゃないし、逃げたのは虎がいたからじゃないってことじゃないの。

何かを失敗した時に自分が無力な卑怯者と呼ばれず嘘吐きにもならずにいようと思ったら口を閉ざすのが一番利口なやり方だ。

結局やつらは王様にも虎にも勝てなかったって……そういうことだろう?

俺はずっと思ってたけどね。

歴戦の将軍も、荒くれの勇者も、もっとも凶悪な盗賊も、あの王子さえ――誰もジャングルで虎なんか見ちゃいなかったんだろうって。

虎を〈見ていない〉……
 茂はそのときになって、ようやく英司のほうに顔を向けた。。

いや見たのかもしんないけど……。

っていうか、実際に見たかどうかなんて、どうでもいいことなんだよ。生きて返ってきたってことは少なくとも戦ってはいないんだろうし、フクスケさんも言うようにジャングルに虎がいるのはみんな知ってただろうしさ。


ジャングルに潜んでいる危険は多分虎だけじゃないし、誰だって自分の生命は惜しい。ジャングルでは虎どころかネズミ1匹にだってビクビク怯えて過ごす羽目になる。虎がジャングルの入り口でやつらを待っているってわけでもなさそうだし、だとしたら虎のいる場所へたどり着くまでに道筋にだって危険は無数に転がっているはずだ。


……俺だったら、そんなところに分け入って行くなんてご免だね。

ジャングルの入り口あたりで適当に時間を潰して、帰るよ。

王は虎を倒した奴に褒美をやるとは言ったけど、虎を倒せなかった奴に罰を与えるとは言っていない。それにジャングルでネズミ怯えていたとしても、どうせ誰にも見られることはない。みんな虎を怖がってジャングルに近づかないんだからさ。

そんな状況なら、誰かが俺を評価する基準は俺の言葉だけだ。そうだろ?

そういうときに、


「いやー、俺ネズミがこわくてさ、虎のトコまで行くとか超無理。ビビって逃げてきちゃったよ」


……なんて話、馬鹿正直にするか? みっともなくて言えないだろ。

でも、虎なら話は別だ。虎を畏れるのは恥じゃない。王と渡り合って賭けをして……歴戦の将軍も荒くれの勇者も、もっとも凶悪な盗賊もケツまくって逃げ出すような相手なんだからな。


やつらは嘘はつかなかった。

虎は確かにジャングルにいて、だからこそ奴らはジャングルに行き、そして逃げてきたんだ。それは嘘じゃないけど、真実の全容でもない。

きっとそれ以上は言えない何かが――王子だけじゃなく歴戦の将軍にも、荒くれの勇者にも、凶悪な盗賊にもあったんだ。

王子が女を残して逃げたように……?
王子は確信犯だったのかもしれないじゃないか。

例えばそうだな……女はその場限りの遊びのつもりの相手で、結婚なんか本気で考えちゃいなかったのだとしたら?

女には子供ができた。

周囲にも知れ渡った。

次第に女が邪魔に思えてくる。

でも王位の為におまえを捨てると女に言えない程度の執着も見栄もあったんだろうな。


――だとしたら、自分の名誉を守りながら女を捨てるにはどういう方法がある?


王である親父はおかんむりで、その女と結婚したければ虎を倒して来いと無理難題を吹っかける。

女は結婚を迫ったのかもしれない。

追い詰められて王子は考える――そして、そのふたつの面倒を一度に片付ける方法があると思いついたんだ。

ジャングルに行って女を捨てればいい。

女は多分死ぬだろう。結果的にはただ捨てるよりもうひとつタチが悪いけど、口を閉ざしてさえいれば、それは単なる不運だ。女も、周囲も……ひょっとしたら自分自身だって、そんな不運にめぐり合うことだってあると納得できるかもしれない。ジャングルには虎がいるんだから。

それは王子が王位のために女を捨てる不幸な結末とは違うはずだ。悲劇かもしれないけれど非道じゃない。悪役に仕立て上げられるのは、虎と、せいぜい親父の王だ。

むしろ王子の計算違いは女がジャングルで生き延びたってことのほうじゃないの。

――お伽話というより、ワイドショーのネタですね。
俺の想像力なんて……所詮その程度だよ。
同じ話を果歩ちゃんや篤志にも聞いてみたいですね。

あのお伽話はただこういうことがありましたと言ってるだけで、その裏側にある人の気持ちは語っていない。

その空白を埋めていく言葉の方に真実が含まれているなんて、私は考えてもみなかったけれど……。

 そう言って、茂は笑みを浮かべた。

 と同時に、茂の発する気配が変わったように英司には感じられた。外見は同じでも、人格が威月から茂にチェンジしたのだと思える変化。

(やっぱり……さっきの気配は威月のものか)
 英司はそれを確信していた。

 威月の召喚に応じて英司と篤志と果歩の3人が〈呼ばれた〉理由――その答えの片鱗を掴んだような気もする。

俺が戦線離脱している間に――状況はどう動いた?
動いていませんよ。

果歩ちゃんは無事です。今は篤志と一緒にいるはずです。

葉凪、どうして攻めてこないんだ?
彼には、もうそんなことをする必要はありませんよ。
え……?
 英司はあっけにとられた。

 今にもまたあの蔓が襲ってくるかもしれないと警戒していたというのに……。

あなたも果歩ちゃんも、すでに葉凪の結界に取りこまれている。ルール上は死んだも同然ですね。

あなたは今、果歩ちゃんに触れることもできない。果歩ちゃんも同様だ。あなたも果歩ちゃんも独自に行動することはできますが、このままでは王牙を呼ぶことはできないでしょうね。

かろうじてゲームオーバーにはなっていない、そういう状況です。

葉凪が残る1人のプレイヤーである箭波(せんは)と、ひとり人歩きしている焔鵬のカタをつければゲームは終わりです。

切羽詰ってる割りにノンキな話しっぷりだな。

その場合、俺たちはどうなるんだ?

どうにもなりませんよ。

今の状況がずっと続くだけです。

ゲームの終了と同時に勝者には封印の扉が開かれる。……でも敗者は忘れられて行くだけです。

この廃墟で、この先ずっとあんたの買ってくるおにぎり食って生き延びろって話か?
――お互い避けたい結末ですがね。

まあそれほど悲観的になる必要はありませんよ。篤志か葉凪を倒せば状況も好転しますから。

俺はここでおとなしく待ってろってことか?
そうですね。

もし箭波や焔鵬に出会っても、威嚇程度に留めておいてください。もし篤志が葉凪に倒された場合には彼らの存在が生命線になりますから。

――一応、果歩や篤志のいる5階まで行くこともできますよ。そっちに階段があって、行き来は自由です。

私はもう一度外に出て食料を調達してきます。もし英司くんの家のほうにも連絡を入れる必要があるなら行ってきますよ。

そうだな……。
 英司は低く言った。

 家のことなど……はるか遠い場所の話のように思えてくる。

 だがさほど心配はいらないだろう。1日、2日の無断外泊などよくあることだった。母親はその度におろおろと心配をしていたが、決まって父親が、大学生にもなればそういうこともある、いつまでも親離れできないでいるよりはよほどいいとなだめている。

友達の手伝いでしばらく泊り込むことになったとか何とか……適当に言っておきますよ。家族の人もその方が安心でしょう?
ああ、頼むよ。

それともうひとつ――訪ねて欲しい場所があるんだ。大間の事故のことを調べたファイルを知り合いに預けてある。被害者のリストなんかもあったはずだ。篤志さんが思い出せずにいる記憶の手がかりがなにかあるかもしれない。

それは助かりますね。

……でもなんで人に預けているんです?

まあ……いろいろとね。

 英司は言葉を濁した。

 新しい両親に気兼ねして、家ではあまりおおっぴらに大間のことを調べられなかった。高校に入学したころから、知り合いの家に入り浸るようになったのはそのためだ。


 そのときから、英司の目的は果歩を探すことだった。


 団地が崩壊したあの夜、一緒にいた小さな女の子。

 救助されたあと入院した病院でも、果歩はずっと身元が分からなかった。3歳ぐらいにはなっていたのにほとんど言葉をしゃべることもできず、1日中部屋の隅っこに座りこんで虚空を睨んでいた。

 食事からトイレまで看護婦がつきっきりで世話を焼いていたのを英司も目にしていた。

きっと、とてもこわかったのね。

それで赤ちゃんのようになってしまったのよ。

 果歩のことを尋ねたとき、看護師がそう教えてくれた。

 PTSD――今はそう理解できる。だがあのときの看護師はその言葉は使わなかったし、もし耳にしていても、小学生だった英司には理解できなかっただろう。


   病院でも果歩はずっとくたびれた犬のぬいぐるみを大事そうに抱えていた。

   英司には、その姿がひどく頼りないものに見えた。

   夜中に団地の庭にぽつんと取り残されていた時よりも……王牙の炎にあぶられたあの時よりも……ずっと。

   だから英司は一緒に部屋の隅に座って、お伽話を話してやったり、お菓子を食べさせてやったりした。果歩の表情は凍りついたように変わらなかった。一度も英司のほうを見ることさえなかった。

 ただそれでも……英司の手を掴んで離さなかった。

『僕が守ってあげるよ。ずっと一緒にいて、守ってあげる』

 そう何度も約束をした。

 名前さえ知らなかったが、その子を守ってやらなければならないと思った、


 だが、やがて果歩の病状の悪化を理由に英司は病室への出入りを禁じられてしまった。さらに英司は親戚の夫婦に引き取られることになって退院した。

 約束を果たすことができないままに……名前さえ分からないままに引き離されたことをずっと英司は忘れることができなかった。

 小さな手の感触が蘇ってくるたびに、あの小さな女の子を捜さなければならないと自分自身に言い聞かせ続けてきたのだ。

まあ、ともかく行ってみますよ。

私もいろいろ調べようと思っていたんです。ある程度の資料が揃っているというのなら好都合ですよ。

――フクスケさん、行く前にひとつだけ教えておいてくれないか?
 身を翻して歩き始めた茂を、英司が引き止めた。

 茂の表情に、かすかに動揺が浮かんだようにも見える。英司がその疑問を投げかけてくるのをすでに覚悟していたのかもしれなかった。

果歩は、威月って妖怪の子供なのか?
 それは英司が、ずっと口にできずにいた疑問であり、同時に今は福島茂の意識と混在してこの状況に投げ出された威月自身が抱き続けてきた疑問でもあった。

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