もしも敬虔な女子高生が〈神は死んだ〉のニーチェ作『ツァラトゥストラ』を読んだなら

『でぃすいず・ディスコミュニケーション』

エピソードの総文字数=2,475文字

まだら牛と呼ばれる街。


そこでツァラトゥストラは群衆に向かい、超人について解説していた。


しかし、群衆は、彼の解説を、てっきりこれから始まる綱渡り曲芸の前説(マエセツ)だと勘違いして聞いていたのだ。


ツァラトゥストラはかくのごとく語りき……。

──「ほら、超人のことを教えてあげよう。超人とは、この稲妻のことだ。超人とは、この狂気のことだ!」──


 ツァラトゥストラがこう言ったとき、群衆のひとりがこう叫んだ。「綱渡りの話は、もう十分だ。こんどは実際に見せてくれ!」。群衆がそろってツァラトゥストラを笑った。綱渡り師は、自分が催促されたのだと思い、綱渡りをはじめた。

前説(マエセツ)ってギョーカイ用語ですよね。ステージの前にADさんとかがやるやつ」
「なんでそんなことを知ってるんだ君は?」
「アイカツで勉強しました!」
「そ、そうだったか」

「それより、『まだら牛』が気になります。なんでこんな名前なんでしょう?」


『まだら牛』。ドイツ語だとMottle Vieh(モートルヴィー)か。なにか意味があるのか、この段階ではわからないな」
「モーとルビー? ですかぁ? まだらじゃなくてルビー色した牛さんだったらファンタジックかも?」

「いや、牛のほうがViehで……、っと言うか……、紅玉(ルビー)色の牛だなんて、冷静に考えるとけっこう怖いぞそれは」


「そ、そっか、そうかもですね……」


「単なる地名。なのかしらねぇ? ほら、ほかの国の言葉で聞くと変な地名とかってありますでしょ?」


「静岡県をサイレントヒルと読んだりするあれか」
「急に格好よくなっちゃいますねそれ」

「その逆パターンでドイツ語だと普通の地名なのかもしれないな。ま、今のところは『そういう地名』ということにしておこう。それより何より注目なのは、いままで長々と超人について説明していたことをさっぱり群衆は理解していないってことだ」


「群衆は綱渡りの話だと思っていたわけですもんね」
「ディスコミュニケーション!」

「高度な自虐ギャグですわよね。100年以上も前にこれをやっているなんて、さすがツァラちゃんですわ」


「当時このエンターテイメント性はなかなか理解されなかっただろうなあ。実際、ニーチェ自身も『自分の思想が受け入れられるには少なくとも200年の歳月が必要だ』なんて言い残していたそうだぞ。

 群衆に理解されないと自覚していたわけだ。


 ふふっ、つまりこれは自虐的自覚ギャグか。ふふふ、おもしろいな」

「え? そうですか?」
「……。」
「えーと、早口言葉だよ早口言葉。うん」
また地下室の気温がすこし下がった気がする栞理だった。
「……。また、隙間風でも入ったかな、ちょっと肌寒くないか?」

「……?

 えっと……。そうだ。200年ですか、ツァラさんってそうとう早生まれだったんですねえ」


「早生まれってレベルじゃないだろうそれは……」
「でも、100年後の女子高校生にこうやって読まれているわけですわ」
(なぜ、ひとみ君のギャグは受け入れられるんだ? 僕も100年単位で早すぎるのだろうか……?)
「ともあれ、どこまで正しく読めているかはわからんがな。すくなくとも、ここに書かれている群衆のように何も理解しないで笑っているわけではない、と思いたいところだ」
「それで、この群衆さんとツァラちゃんのディスコミュニケーションっぷりは、まだまだ続くのですわよね」
「そう、綱渡り師が渡り始めても、お構いなしにツァラトゥストラは語り続けている。これは今やったら営業妨害で訴えられるかもしれないなあ」

 ツァラトゥストラは群衆を見て、怪訝に思った。それから、こう語った。

 人間は綱だ、動物と超人とのあいだに掛け渡された──深淵の上に掛かる、一本の綱だ。

 彼方に渡ろうとするのもあやうい。中途にとどまるのもあやうい。振り返るのもあやうい。震えて立ちすくむのもあやうい。

 人間の偉大さは、人間が橋であり、それ自体は目的ではないということにある。人間が愛しうるのは、人間が移りゆきであり、没落であるからだ。

 わたしは愛する。没落する者としてしか生きることができない者たちを。それは、彼方へ向かおうとする者たちだからだ。

「ここでやめておけば、けっこう綱渡りの説明っぽいのだがな」
「ここからしばらく、ツァラちゃんがどれだけ人間を愛しているかの説明がつづきますのね」
「私数えてみました! この後、18個も『わたしは愛する』って出てきますよ~♡」
「くどい事この上ないけれども、これがツァラトゥストラなのだろうな」
「えーと、くどいと言えば……、そうだ、栞理先輩!」
「なんだ?」
「ツァラトゥストラって言いにくくありません?」
「そうかな? べつにゾロアスターと言ってもいいんだが……」
(注)ツァラトゥストラは、ゾロアスター教の神『ゾロアスター』のドイツ語読みである。もっとも、ニーチェはゾロアスター教の神としてツァラトゥストラを描いたのではなく、単にキリスト教に馴染みのない異質な名前としてツァラトゥストラという『響き』を使っただけといわれている。

「いえ、そうではなくって、私は『ツァラさん』って言ってて、早乙女先輩は『ツァラちゃん』って言ってるじゃないですか。

 やっぱりあだ名決めましょうよ~」

「そうですわね。でも、あだ名と言いますか、敬称ですわね」

「うーん、ツァラトゥストラ、ではダメか?

 そうだなあ、『さん』も『ちゃん』も僕の手塚訳にはあまりなじまないのだが……」

「じゃあ殿(どの)で!」
「ぶっ!?」
「うふふ、いいじゃない、それにしましょう」
「けってーい! 栞理先輩のツァラちゃんはツァラ殿で!」
「って、おい、勝手に決めるのか?」

「だって先輩ったら特に案ないんでしょう? いいじゃないですかー。かわいいですよー、ツァラ殿♪」


「う、うーん」
「可愛いは正義、なんですよね?」
「そうでーす!♡」
このまま、栞理のペアブックである手塚訳の名称にツァラ殿が定着してしまうのだろうか……?

みっともないところを見せてしまってから妙に立場が弱くなっている気がする栞理であった。


〈つづく〉

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