いかに主は導きたまうか。

11.3 Contemplation 夜風の中から。

エピソードの総文字数=3,507文字

TALKERより皆様へ:

  最初にお断りから始めてみよう。...ボクは学者ではないし、専門家でもない。どちらかと言うと、「セッカチで」「ルーズで」「記憶力もあまり良くない」。...つまりは、あまりカシコくはない類いの人間だ(泣)。演繹的な思考に乏しく、帰納法ばかりの横着なやつである。そのくせ、自身のアンテナに引っかかってきたものには敏感で、なんでも取込み、吸収をしてしまう。所詮は、誠に思慮の浅〜い[感覚的かつ情緒派人間]のボンである。*(射手座&タイプ4)。その理解も主観的で恣意性まみれ、まことに怪しい限りであると言わざるを得ない。”売り”があるとするならば、「このアンテナの指向性と、その感度だー」ぐらいは言ってもいいかもしれない。(更に言っときますが、ボクには霊感はありません)。でも、少し標準とは違うかも...。ならば、少しは希少性としての価値は期待してもいいのではないか?間違った、おかしなことを言ったとしても、誰ぞか(頭のいい人)の学究の成果における、そのご立派さへの ”くすぐり” ぐらいにはなるのではないかと信じて書いている。

  ぐだぐだ話しているのは、本エピソードでは聖書からの抜粋を、またしてしまったことに起因する。更には、(毎度のことながら)これにはボクの手が加えられている。下の、[意訳:byMe]と( )括りのところ。*前にも一回やっている。こういうことをするのは、恐れ多いことだとは分かってはいます。権威者の方がみたら、どこぞやらへ連絡を入れられてしまうのではないかと、「ビクビク」している。でも「まあ、いいや〜、やっちゃお〜!」が、ボクのイザという時の行動方針だ(w)。これの方が要旨がハッキリする。よって、こちらにとって都合がよくなる。言いたいことを伝えるにおいて、ブレを少なくできる。文字数を少なくできる!。嵌め込みが容易になる(W)。
読者の皆様方におかれましては、こんな感じ故の ”怪しさ” を十分に弁(わきま)えた上で、おつき合いされますことをよろしくお願いいたします。「いいえ、決して悪いようにはいたしやせん」。「はい」。

     『 いざ、開演!』

「悪いと知って行えば、償うのが困難な罪を犯す。」(G)

  いったんチャンネルが開かれたのなら、[こちら]と[あちら]は結ばれてしまう。こちらが知れば、あちらもこちらを知り認識してしまう。「もう貴方との縁は切りました」「では、さようなら」では済むわけがない。ましてや、罪、汚れで語られる、ある種の(メタ)物質が、此の身に(肉体/エゴ)に結晶化しているとするのなら、たちの悪い彼方よりの干渉も止むを得まい。すべては自分の責任だ。

  おそらく、普通の ”過ち” だけであれば、〈Remorse〉:[悔恨、自責の念、深い後悔、痛恨の念、良心の呵責]の深い自覚、経験が浄化としての手段になるのであろうが、ボクの場合は、少しややこしい。過ちだらけの上に、さらに観念世界における罪が備わってしまっているのだから...。救いであり、絶望でもあるとも言えるのは、【エゴ】の存在だ。良い面では、それは敵として明確に対象化できるということ。悪い面としては、絶えず制約として我が身の中に、それは働いていて、自分が[不憫]という以外の何者でもないことを絶えず思い知らされるということだ。

  あちらからの侵攻は、ほとんどは夜間だった。多いのはインキュバスのタイプ。(えらいグロテスクなものに突っ込まされていた)。それと、肝が、ちじみあがるほど怖い侵入包囲パターン。(喩えで表現すれば、体内に”それ”はいるのだ)。一度など、なにやら怪しげな楽奏にて魂を魅せて虜にしようとする、召魂パターンもあった(和楽でキコーン・タン・タン・タン...)。すべて、『主の祈り』を繰り返すことにより、どこかでそれは止んだり、こちらが夢から脱出することができたりで助かってはいる。かなり怖い。物理的な蚊の大量侵攻なんてのもあった。網戸がなぜか開いていた。

 ....主は言われる。
「たとえ、おまえの罪が緋色のようであっても、雪のように白くなる。
 たとえ、深紅のように赤くても、(純白の)羊の毛のようになる」(旧約イザ1:18)
 
  新約の中にもこれを引用している部分があったと思うのだが、見つけることができなかった。この言葉だけが頼りだ。自分のある状況状態から救われる為の方策が他には何処にもない。”あの時”より、ボクにはいつも選択肢がない。主に依るしか術がない、主の教えに従うしか道はない。それから外れたら、即座に[アウト]になるのは明白なのが、ボクという存在なのだから。 

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき休む場所を探すが見つからない。
 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして
 整えられていた。*(しかし『主』は見当たらず)、空き家ではある...。そこで、
 出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み
 着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」(マタイ12:43)
 *[意訳:byMe]

  この話もいろんな読み解き方があるのだが、ボクには我が身のこととしての理解だけで充分だ。ポイントは、*(しかし『主』は見当たらず)における、『主』の存在だ。マタイにもルカにもこんな言葉はない。聖書には、こんな語は存在していないのだ。つまりは、ボクの勝手な持ち込みだ。でも、これで良いと思っています。*これが欠けると、なんの為の話なのかが分からなくなってしまう。(略)。まあ、そんなことはどうでもいい。ボクにとっての肝心なのは、状態が前よりも悪くなることだけは、絶対にあってはならない。御免蒙るということに尽きる。

  であるならば、この『主』 が大事になってくる。この話は、間違いなく『キリスト』が『心の中に住まわって下される』状態に至れ、との示唆でいいと思う。*まったくの正当な教えです。その為には...の内容に、ご興味がおありの方には聖書にあたっていただくとして(使徒パウロ等が山ほど書いてくれている)、もう一つの可能性について、違う切り口からのアプローチについては、ボクが述べておきたい。『主』 たる存在は最初から私たちの中にいるのです。生まれた時から。成長の中で、なぜか糸でぐるぐる巻きにされ、封印されてしまう。(もしくは、身動きできないまでに、埋もれてしまっている?)。もし、貴方がお望みとあれば、世界は繭を切り裂いて、【これ】が現れ出づる為に、(各自各々の)道筋を用意してくれるようになります。ただし、世界が不幸で痛み多いということにさえ感謝を持てるようにならなければなりません。*切り裂く為の武具は二つ、『気づき』と『執着するものを自由に放擲できる力』。

この世界の起動スイッチは、なんらかの信仰への入信であると思います。

     【了】



追記:

確執葛藤、それらなくしては火は起らない。苦しみの最中に、敢えて教えの通りにあらんとして奮闘する[私]とは誰なかのか?。

頭で分かるだけではダメ...。リアルな経験の中でしか行い得ない。つまりは機会を利用する...。故に機会そのものに、また機会をもたらせてくれた存在に感謝をしなければならない。

かって私の師は、ボクが「道が、うんたらかんたら」言うと、『分かっていない』と嘆かれてました。師の理解では、それは探したり、手に入れるものではなく、既に人間の中にある仏性の完全な発露とされていたのだと思います。*方便としては、道もありだと思うのだけど...。

ああいうのとは別だと思われることが一つあった。夜間、電気のついた、部屋でのことだ。立っていたボクは、何者かは分からない目には見えない存在に、思いっきり強く接吻された。彼女だったのかもしれない。どうやるんだろね〜?

バ◯カ◯日本支部、リスク管理課へ、「また偽予言者の候補が一名現れました!」の通報を入れられることを恐れている。ゴ◯ゴ十◯ぐらいは送り込めるのではないか?
*最近の聖書では、偽予言者ではなく、偽教師との表現に変わっているのね。

今後も[意訳:byMe]と( )括りには、重々にご注意をおねがいします。ボクが”勝手に”改稿してしまっているだけですので。アーメン。

サブタイトルは当然、中◯み◯き姉さん。合わないね〜。

『我に、七難八苦を与えたまえ』は誰が言った?


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