オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第三十三章 マタイによる福音書二十六章四十一節

エピソードの総文字数=2,316文字

『誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』マタイによる福音書二十六章四十一節


 夢を見ていた。白と黒が入り混じるモノクロの世界、まるでそこは平原のようでもあり、燃え盛る金網の上のようにも見えた。俺はただ震えて立ちすくみ辺りを見渡しても何も見えなかった。ただ肺を焼き焦がす熱を感じた、俺は恐怖していた。だがこの暑さにではない。
 黒の四角い影の中から何かが這い出てきた。それは叩き潰された肉塊でありながら出来損ないの節くれだった四肢をいくつも生やしていた。その先には鋭いカギ爪が白く輝いて地面に突き立てられた。怪物の目だけが紅玉のように輝いた。聞くに堪えない、いや、鼓膜に泥を流し込むような鳴声が奴の体の中から響いた。俺は夢の中で必死に祈った、この悪夢を終わらせてくれ、と。だが俺は夢の生み主であっても創造主ではなかった。怪物の手が伸び、俺の体を掴みあげた。俺は何もできずに吊り下げられ、両足が宙で揺れる。
 怪物はカギ爪を俺の腹に当てた。そしてそのまま皮と肉を引き裂いた。痛みは無かった、だが俺の目の前で夥しい血と内臓が濁流として流れ落ちていく。俺は悲鳴をあげようとした、だが口から出るのは空しい音を鳴らす空気だけだった。
 切り裂かれた腹から流れ出た血肉が白黒の世界を濡らして満たしていく。俺と怪物を中心に世界が赤黒く染まっていった。怪物がまた鳴いた、その紅い目は赤黒い世界に飲まれていく。俺は叫ぼうとして叫べず、逃れようとしても逃れられなかった。
 ただ無様に吊り下げられ、腹から流れ出る血と臓物がその世界を犯していくのをただ眺める他なかった。

 目が覚めると俺はカウチから飛び起きてまず部屋を見渡した。ガラスのローテーブルには開かれたままの心理学に関する書物が投げ出され、横倒しになった空のガラスはただ空しく転がっていた。その脇にある置時計は零時零分と昼の訪れを教えた。
 悪夢の恐怖は抜け切っていなかった、それは部屋を満たしていた恐怖の匂いも同じだった。汗と涙を流して生み出されたものは常に良いとは限らない。
 昨日から着たままだった服を脱ぎ捨て、窓を開け放って日光と排気ガスに侵された空気を部屋に流し込み、シャワールームに転がり込んだ。熱い湯をかぶっているとぼやけた意識が鮮明になっていく。
 頭にタオルを巻き、バスローブを着てカウチに横たわった。眼を閉じてもう一度悪夢を思い返そうとしたがまるで焼けたテープを回してみる景色のようだった。焦点の合わないカメラで撮ったぼやけた映像、それは何の意味もなさない。
 あの怪物は悪夢の産物だった。現実にいるわけがない。空想と妄想は違う。だが場合によってはどちらも現実を支配する。
 どんな怪物であっても想像の産物に過ぎない。それはどうあがいても物理の実体をもつことは出来ない、そして想像主が死ねばそれもまた消えていく。手を伸ばしてローテーブルから本を引きずりあげた。『秘密の子供たち』最初に目に入ったのはその言葉だった。
 俺たちにとって怪物は身近な存在だった、愛していると言いながらこぶしを振り上げ、お前のためと言いながら自由を奪い取っていった奴らだ。彼らの機嫌でも損ねようものなら俺たちは内外から苦しめられる、親にとって良い子じゃないという罪悪感と振りおろされた拳とぶつけられた罵倒の痛み、それがずっと続くものだと信じていた、そして誰も助けに来ないとも。
 正真正銘の怪物は居ない、現実に居るのは理解しがたい人間だというだけだ。俺の両親がそうだった。昔、俺は奴らを殺そうとした。今はそうしないが憎しみは今も持ち続けている。
 理解しがたい、だが奴らの観点から見れば筋が通っているのだ。それが奴らの哲学であり奴らの理論だった。サイコパスだってサイコパスの理論がある、それさえなければ俺たちも奴らも同じにすぎないのだ。
 結局のところ、人間に変わりない。飲み食いして眠ればセックスもする、恐怖だってする。
映画や漫画に出るような怪物は存在しない、存在するのは人間と動物だ。神と悪魔については存在も非存在も証明することは出来ない。
 いるのは人間だ、そして人間は愚かさと弱さから道を踏み外す、条件さえそろえば聖人だって罪を犯す、凡人は当然だ。
 唯一の違いは独特の足跡と匂いを残してしまうということだけ、あるいは噛み傷を。

「知恵は見つかるかもしれない」スマートフォン越しにその言葉をぶつけた時、向こう側からははっと息をのむ音が聞こえた。そして夢奈は飛びついた。
「本当ですか!今、姉さんはどこに居るのですか!?」
「落ちついてくれ、言った通り、見つかるかもしれないというだけだ、これから探してみるが、君の望んでいる通りにはならないだろう」と、俺は言った。
「それは一体どういう……」
「すまない、全ては言えないんだ。最善は尽くすし、俺はこの手がかりが外れることを祈っている、それにコナーが今別口で調べているんだ、ただ君は待っていて欲しい」
「その、もし見つかるとしたらいつわかるのですか……?」夢奈の口調は重かった、瞼の裏で額を押えてうなだれている彼女の姿が思い浮かんだ。
「最短で今夜、外れた時は一度話し合おう、このまま調査を続けるかどうかを」
「……わかりました」と、夢奈は言った。そしてそのままぷつりと電話は切れてしまった。
 通話が切れると俺はそのまま眼を閉じた。日差しが顔にかかったが腕を目元を覆って日陰にした。
 今夜は長い夜になる、眠れるときに眠っておくのが最善だった。そして俺は最善を尽くすために最悪になろうとしていた。

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