【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-04 燕

エピソードの総文字数=2,989文字

 手のひらに滑らかな肌の手触りがあった。柔らかく、暖かい手応えが、篤志の皮膚にぴったりと吸い付くように存在している。

 呼吸のたびにうごめく喉の突起や鎖骨と交わるあたりにある窪みの作り出す陰影、皮膚から染み込んで脳のどこかで映像に形作られて行くのを篤志はじっと感じていた。この滑らかな肌の下で、複雑に絡み合う筋肉と血管と骨格の――そのすべてがもう一度篤志の中で再構築されていく。

 どうすれば破壊することができるのかを……篤志は知識ではなく手応えとして〈知って〉いた。

(ほんの少し手に力を込めるだけで、すべてが終わる。これ以上果歩を苦しめずに……終わらせてやれる)

 手のひらの中で繰り返す果歩の頼りない脈動が消えるとき、篤志を急き立て獰猛に繰り返される鼓動も消え失せるはずだった。

 果歩ではなく。

 英司ではなく。

 あの天空を焦がした巨大な炎でもなく……。

 この鼓動こそが、虎と呼ばれるべき意志なのかもしれない。

(ひとりじゃない、果歩。朽ちて行くおまえのなきがらを、俺がいつまででも抱いていてやる。この手触りがやがて白い骨に変わり、砂のように指の間から消えていっても……ずっと)

(俺があのとき生き残ったのはそのためだから……)
ん……んんっ!

 果歩の喉を締め上げる指が、白い肌にくっきりと赤く斑紋を残して食い込んで行くのを、篤志はじっと見下ろしていた。果歩の表情が歪み、激しく身体が震え、すがりつく指が爪を立てる。額に見開かれた赤い文様が血に濡れた鏡面のようにきらめいて、狂気に急き立てられた殺人者の顔を映し出している。


 果歩の髪の間から一本の金茶色の蔓が伸びたのはその時だった。

 蔓は勢い良くしなって篤志の右手首を捕らえ、果歩の首を締め上げていたその行動を阻んだ。

くっ……。

 手首を食いちぎらんばかりに締め上げる蔓を、自由な左手で掴んで立ちあがった。ベッドの枠に結び付けられていたシーツがめくれあがる。裸電球の赤っぽい光りに照らし出された室内は、すでに絡み合う蔓で埋め尽くされていた。

 その篤志の足元で、果歩が激しく咳き込みながら身体を起こした。

立ちあがるなっ! そのまま伏せてろ!

 篤志は叫んだ。

 だがその直後、果歩の背後にもペパーミントグリーンの床を破って無数の蔓が出現した。むせ返るほどに濃厚な花の匂いが押し寄せてくる。

あ……。
 果歩は自分の身体の下から次々に伸びてうごめく蔓を振りかえり、バランスを崩しそうになりながらも必死で立ちあがろうとしていた。
あっちゃん……っ!

 今にも泣き出しそうな声で叫び、篤志の方へ腕を差し伸べる。

 だがその果歩の腕にも無数の蔓が巻きついた。腕だけではない、腕にも身体にも、数え切れないほどの蔓が巻きついていて繭のように果歩を包み込んでいく。

果歩っ!

 その手を掴もうと篤志もまた手を伸ばした。

 だがあとわずか数センチの距離を、どうしても縮めることができない。ほんの一瞬だけ、微かに指先が触れ合った。でもそれが……限界だ。

くそっ。

 力任せに篤志は蔓につかまれた腕を振り上げた。

 細い蔓がぎりぎりと食いこみ、皮膚をすりむいて血が吹き出す。蔓をひきちぎりながら篤志は果歩に歩み寄った。だが、すぐに新しい蔓が篤志の行動を阻む。

驚いたよ、人間が素手でこの蔓を切るなんて……。

 果歩の身体を包み込んでいた蔓が次第に人の形を取り始めた。

 長い金色の髪。額に角のある彫像のような男の姿が、上半身だけ床から生えている。長い腕で背後から果歩を抱き、怯えて青ざめる頬やくっきりと篤志の指の跡が残る首筋をその指先で撫でて行く。

――おまえが葉凪か。

 篤志は言った。

 おそらくこの姿は……小霧の水狐と同じなのだろう。だがそれは、今の篤志にとってはどうでもいいことだった。彼らにとってこれはゲームなのかもしれない。だが篤志には、遊びではあり得ない戦いなのだ。

この子の首をしめながら、迷っていたのかい。それとも興奮していた? 怯えさせ、苦しみを長引かせて苦痛にもがくところが見たかったから?

ゆっくりと時間をかけて愉しみながら殺せば、君の内側に渦巻いている醜悪な欲望や殺意を満足させられるとでも?

――その力があれば、1秒とかからずにこの首を切断することだってできたはずなのに……。

 なぶるように葉凪が言った。

 自らの内に潜む獰猛な鼓動に飲み込まれ、翻弄されるばかりの篤志の脆弱さをあざ笑っているようだ。

果歩を離せ!
もう一度君に殺させるために? できない相談だな。
 言葉尻が鋭さを増した。
『そして王子様は蔓の檻に女の子を閉じ込めて、末永くペットとして可愛がりましたとさ』


――陳腐だわね。

ずいぶんとつまらない結末じゃないの、葉凪!

 突然、女の声が割って入った。

 睨み合う篤志と葉凪の間に雷光が走り、無数の蔓が一気に切断される。

 篤志は反射的に身を翻し、床に落ちていた鉄パイプを拾い上げて身構えた。

箭波……邪魔をするな。

 ベッドの向こうに、女が立っていた。

 20代半ばほどと見える。すらりと伸びた躍動的なスタイルの良さ。挑みかかるような鋭い目が好戦的な性格を物語っていたが、姿形に特に変わったところはない。だがその身体が淡く背後を透かしてかすかに光を放っているのを目の当たりにすれば、篤志にも状況を理解するには十分だった。

 ――この女もまた人間ではなく、実体でもない。

こんなイキのいいコマを相手に戦えるチャンスなんて滅多にないのに、それを楽しまないなんて……。

それって人生ドブに捨ててるようなもんじゃない?

 女は挑発するようにそう言って、腕を振り上げた。

 その腕から滲み出すように光が溢れ、鳥の形を作り上げる。

(さっきの雷光か……!)

 篤志は鉄パイプを握る手に力を込めた。

 だが女の狙いが自分ではないのだとすぐに悟った。

 翼を広げた鳥は、滑空する燕のように天井近くでくるりと向きを変え、一直線に果歩めがけて降下したのだ。

……。

 果歩もまた、その光景を見つめていた。

 真っ赤に染められた視界が、次第にその色彩を失って行く。

 赤い青も赤い黄色も赤い緑もすべてが消え失せ、白く光る視界に雷燕の姿だけが映った。

果歩っ!

 鼓膜を震わせたその怒号を誰が発し、何を意味しているのかとらえるより早く燕の鋭いくちばしが果歩の胸を貫通し、雷光の輝きが長く尾を引いてその軌跡を描いた。

 気の遠くなるような激痛に身体が震えた。

 果歩の身体を取り巻いていた無数の蔓が干からびて枯れるように力を失い、床に落ちていく。

 そしてあの呪詛の言葉が、甲高い悲鳴のように響いてうつろな身体を満たして行くのを果歩は聞いた。

(ピーちゃん……来てっ!)
相変わらず、君のやり方には品がないよ、箭波。
あんたを相手にするなら、このくらいで丁度いいのよ。

邪魔くさい結界にコマを閉じ込めていたんじゃ、ゲームは面白くないわ。

 箭波と呼ばれた女は不敵に笑った。

 だがその笑みは長くは続かなかった。

ピーちゃ……ん……。

 わずかに果歩の唇が動き、切れ切れにその言葉を形作ったからだ。

 雷燕の光が果歩の胸に穿った穴から目を射るほどの輝きが溢れ、膨れ上がる炎と変わって咆哮を上げた。

まさか……。

動けるわけない。雷燕をまともに食らったのに……。

単体で王牙を呼べるのか……?

 葉凪の声が上ずった。

 果歩の目が大きく見開かれて箭波を見つめたのは、その時だった。

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