『みじょかもんの祈り ー 心の貧しい人は幸い? ー』

01. 「地味な35歳、男。」

エピソードの総文字数=1,698文字

私は、大阪でカトリック系のミッションスクールで働いていた。
教科担当は、宗教科と地理歴史科だ。

小心者で平凡なタイプの私。

赴任したばかりのころは、「センセー、早く大阪弁で授業して下さい。標準語で話されると、大阪人は、インテリっぽくて嫌なんで。」と言われた。
「ウソっぽい大阪弁の方が、大阪の人には鼻につくんじゃないのか?」と思ったが、生徒には、そのウソっぽいのでも標準語よりはいいらしい。

当時、学校のすみに喫煙所があった。
そこで、いろんな先輩の先生にお話を聞くことができた。
今では、喫煙所さえも撤去されている学校は多い。
喫煙所は、先生同士の情報交換のいい場所であった。

私の身分は、常勤講師だった。
聞き慣れない方もいるだろう。
例えば、会社であれば、正社員が教諭と呼ばれ、派遣社員は、常勤講師と近い。
細かく言えば、違いはあるが、時期が来れば職場を離れなければならない点では同じだろう。


3年経つと、私は次の就職先を見つけねばならなかった。

「大阪で、ずっと生活をしていきたい」と強く思っていたが、就職だから致し方ない。
色んな学校に履歴書を送ったが、不採用続きだ。
空きがなければ、そもそも雇ってくれる学校なんてないのだ。
履歴書が虚しく返ってくる。

「これは、ヤバイかもしれないな・・・」。

年末になって、ある学校から1次審査合格の通知が来た。

それは、東京の学校からだった。

生徒の影響からか、東京はとても、遠い存在のような気がしていた。
自分の中で、東京と自分に線を引いているような。

関西で働き続けたいと思っていたので、東京へ行ったら戻れない気がしていた。
しかし、不採用だらけで、そんなことを言ってる余裕もなかった。

「この年齢で、東京で、社会人としてやっていけるのか・・・?」

不安があった。

私は、30半ばの地味な人間だ。

ずーーっと、そうやって生きてきた。
人付き合いは苦手で、友達は、ほとんどいなかった。
趣味もない。
特技もない。
顔もイマイチだし、体格もモヤシのようだった。
大阪で何とか生きていけたのも、周りの職員や生徒の笑いの文化があったからこそだった。

長崎の五島列島で生まれた私は、人見知りが酷かった。
中学、高等学校でも目立つ存在ではなかっただろう。
東京の大学に行ったが、友達は少なかった。

10代の頃の東京の生活は、何もかもが刺激的だった。

JRがある。
地下鉄がある。
(長崎は100円の路面電車だ。)

切符を持たず改札を入ろうとして何度も止められた。
切符売り場が、JRと地下鉄の区別も分かっていなかった。

通勤ラッシュで潰されることもあった。

地上8階以上のエレベーターに乗ったことはなく、50階の外が見えるガラスのエレベーターに乗って気絶しそうになった。

新宿や渋谷に行けば、人混みで酔いそうになっていた。
夜になっても、東京は昼間のように、どこでも明るかった。

学生が終わる頃には、東京の生活に慣れていた。

しかし、それは、あくまで学生の時だからこそ通用した生き方だったのではないか。

人が多い世界の中で社会人として生きていけば、飲み込まれて行くのではないかという気持ちがあった。

具体的に「飲み込まれて行く」とは、どういうことか?と聞かれれば難しいのではあるが。
とにかく、学生と社会人とでは大きな違いがあると思った。

一方で馬鹿な妄想もしていた。

それは、大学時代は、色んなテレビドラマを見ていたからだと思う。
ドラマの中の主人公たちは都会の喧騒の中で、カッコよく生きていた。
GTOや金八先生、ごくせん。

東京での生活は、もしかして自分にスゴイものをもたらしてくれるのではないか?
とても刺激的で、カッコよく生きていけるのではないか。
・・・不安を抱えつつ、自分に言い聞かせるようにしていた。

そうやって、2009年の春。
東京の学校に勤めるために、埼玉の入間市に引っ越して来た。

これが、私の人生の中で、地獄のような痛みを味わう年になるとは思ってもみなかった。

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