オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第九章 シラ書三十四章三節~四節

エピソードの総文字数=3,157文字

『夢の中で見るものは映像にすぎず、鏡に映った自分の顔のようなもの。汚れたものからどうして清いものが、偽りから真実がどうして取り出せようか。』シラ書三十四章三節~四節


 夢奈が探し回っている間、俺は一階に下り、もう一度家の雰囲気を感じ取ろうとした。その時、見えていなかったものが見えた。一階の廊下は玄関から居間に繋がっているがその途中に4つの扉があった。手短な扉から開けていくと最初はトイレ、次に脱衣所と風呂場、三つ目は据え置きの物置なのか買い溜めされたトイレットペーパーや洗剤、何かよくわからないガラクタで埋め尽くされていた。最後の扉を開けると、そこは薄暗く妙に狭かった。
 スイッチを付けようと壁際を探ったが触れたのはざらざらとした壁紙だった。口の中で嫌な味が広がってきた、それはかつて嫌になるほど味わってきたのとほぼ同じだった。首を振って眉間を揉んだ。まぶたの裏でちらちらとつぎはぎの記憶が見え、脳裏で感情が沸騰した。怒声、こぶし、哀しみ、恐怖、痛み。忌々しいフラッシュバック。
「集中しろ、くそったれ。今はあの時と違う」誰に言うまでも無く、言い聞かせるようにつぶやいて下唇を噛んだ。鼻で深呼吸し、体の内部を冷やすイメージを脳内で繰り返した。
 少し楽になったのを確認したうえで、スマートフォンを取り出しライトをつけて部屋を照らした。一見すると物置のようにも見えた。
 部屋の壁という壁には本棚や洋服ダンスが無造作に置かれている。一方の中央には段ボールの山が積み重ねられており、近くのスーパーから持ってきたのか、様々な企業のロゴが印刷されている。近づいてそのうちの一つを開けると出てきたのはプリントの束だった。上に置かれているのはなんらかの会議の議事録の物だった。おそらく教会の行事のだろうか?
 部屋の隅にライトを向けるとそこに祭壇があった。祭壇と言っても日曜大工で造ったような貧相な小さいタンスの上に青い布を敷き、その上にマリア像と赤い蝋燭が二つ、そしてかつての教皇ヨハネ・パウロ二世の顔写真が飾られていた。蝋燭を手に取ってみると鼻孔をくすぐる蝋の匂いが漂ってきた。紐の先端が黒ずんでいた。しかし蝋の表面を撫でると指先に埃がついた。おそらく最後に使われてから時間は経っているようだった。
 ここの本棚はやや高価な物かガラス戸が付けられており、反射したライトの向こうで本の背に書かれた題名を見ることができた。いくつかは一昔までのベストセラーだったが、ある個所はキリスト教関連の書籍で埋められていた。『教会の社会教説要綱』『回勅 いのちの福音』『教皇講話集 家族』俺も持っている本のいくつかも収められていた。
 感心した反面、すぐに疑問が思い浮かんだ。ガラス戸を開けて、手っ取り早く教皇講話集を手に取ってみた。帯はつけられたまま、折られたページも無く、おまけのしおりは入ったままだった。手垢で汚れているわけでもない。読み込まれていない、あるいは傷がつかないように神経質に読んでいるかのどちらかだ。他の本も手に取ってみたがどの本も似たり寄ったりの状態だった。
 元に戻してガラス戸を閉めた。スマホのライトを消して物置から廊下に出た。

 二階に戻ると話し声が聞こえた。夢奈の入った部屋からで、近づいてみると扉が開いて彼女が出てきた、手には黄色いしわくちゃのプリントとスマートフォンが握られていた。
「あ、琥珀さん。今さっき利人さんの家に電話をしてみたんです、そしたら時間はいつでも空いていると」
「そういうのは自分でやるんだが、礼を言う。ありがとう。しかしそう簡単に連絡がついたのか?」
「出てきたのは彼の母親でしたけどね、彼は家にいるからって」
「実家住まいというわけか」二十歳を過ぎても親元から離れない、離れられない奴は多い。最近では何も珍しいことでもなかった。
「ええ、そうみたいですね。今日すぐにでも行くつもりですか?」
「どうだろうな、最初にこちらから電話して、その感触次第としか言いようがない。それに素直に話しをしてくれるかもわからないからな」俺はゆっくりとため息をついた。
「とにかく、ありがとう。その紙を渡してくれるかな?」俺は言った。彼女は頷いて紙を手渡してくれた。それを折りたたんでカバンに仕舞い込んだ。
「ところで、親御さんに話を聞きたいんだが、どこにいけば会えるかな?」一瞬だけ夢奈の顔に嫌悪感が浮かんだがすぐに消えた。
「えっと、そうですね。父は会社にいると思いますよ。むしろほかに行かないでしょうね。母はいつも友達の家とか教会の信徒会館に居ると思います、お話ししたところですよ」
「会社というと?」俺の問いかけに夢奈はスマホの画面をフリックして画面を見せた。
『株式会社荒川運輸』という会社のHPらしかった。
「父はここで働いています。確か部長だったかと」彼女はそう言ってスマホをポケットにいれた。俺は礼を言った。
 夢奈は俺の顔をじっと見た。そして覗き込むような目つきで口を開いた。
「あの、変なことかもしれないけど聞いていいですか?」
「聞くことも聞かれることも慣れている」手でどうぞと促した。彼女は腕を組んだがすぐに解いた。
「夢を見ることはありますか、寝る時に見る夢じゃなくて将来こういうことがしたいという夢ですけど」
 色々な答えが脳裏に浮かんでは消えていった。白昼夢ならギネスブックに載るほど見て来ただろう、最初は自分と遊んでくれる犬のぬいぐるみを夢見ていた、それが同い年の子供に変わり、少女に変わった。一四才を越えたころにはその少女を押し倒して好きに弄ぶ様になり、それ以降は世界が燃え上がって崩壊する様子を見ていた。今見るのはその煤のような名残だ、あるいは焼けたフィルムを回している様を遠くから見る程度だ。
 夢は麻薬と変わりない、それは適宜使えば痛みを忘れさせてくれる、しかしのめり込みすぎれば夢に支配される、頭から離れられなくなり現実が見えなくなる。夢は都合のいい部分しか見せてくれない。あるいは見たいものしか見せない。しかしその材料はいたるところから手に入ることができる。
 現実と夢は対立関係ではない、どこかで繋がっているのだ。昔、実の親や義父にレイプされた子供たちの書いた絵を見せてもらったことがある。その絵の中で彼女たちは腕も足もなく、顔の前にグロテスクな男性器を突き付けられていた。振り払う腕も無ければ逃げ切る足も無かった。「鳥かごに囚われているのよ」とその時のカウンセラーは教えてくれた。
 夢と一口に言っても多くの事柄があった。俺はそのどれを答えようか迷った。甘い夢、都合のいい夢に酔いしれ、現実という苦杯から眼を背き続けている堅気を大勢知っている。俺はむしろその苦杯を浴びるように飲みすぎて甘い夢に浸れなくなっていた。
 だが彼女は俺の哲学講座第八七回を聞きたいわけではない、ただ夢を見るかどうかの答えを聞きたいのだ。俺は目を閉じた。そして五秒数えてから眼を開き、口を開いた。
「見ることはあるがその数は少ない、現実に生きていればいるほどもう夢を見たくも語りたくもないと思えてくる、だがそれでもちっぽけな夢は描いている」
「それはどんな夢ですか?」夢奈は言った。
「自分が自分として生きていく。些細な夢だが叶えるには難しいことだ、どうしても上手くいかないときもある。だがそれでも夢見ずにはいられないのさ」
 彼女は俺の答えを聞いて顎に指を当てた。そしてしばらく何も言わなかった。俺は頬を掻いていると彼女は顔をあげた。その顔はどこか哀しく見えたが笑っているようにも見えた。
「なんとなくですけど、わかる気がします。難しいですよね、自分らしくって」

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