パナギアの童女は茶室で微笑む ――その女は死を知らず、ただ眠るのみ――

進撃のスラブ人 「母国語で主を称えよ」「一文字残らず翻訳してやる」

エピソードの総文字数=5,232文字

  姐さんが、フス、いや、フス戦争の話をしてくれる、との事で、俺は姐さんに話を進めるよう促した。瓶白も、聞く準備(スタンバイ)は済んでいるように見えた。

「フス戦争っていうのは、フフ派が起こした戦争、って事はわかるかなジョーキ?」
「そりゃ、字面(じづら)を見れば、そこまでは誰でもわかると思うけど……」
 姐は少し遠くを見て、こう答えた。
「歴史って、そこに至るまでの前後の流れとか、地政学的な話抜きでは、なかなか伝えにくい面があるのよね」
 いかにも。例えば一向一揆を、一向宗が起こした一揆、といえば間違えではなく、それ以下でもなければ、それ以上でもないのは明白だが、その説明だと、何の理解も得られない。

「今から少し歴史の話をする事になるけど、今現在での価値観、特に善悪や、酷い・酷くないとかを持ち込まないでね。ジョーキは大丈夫そうだけど……」
 姐さんは説明をしながら、頷いている瓶白を見た。これは姐さんなりの気配りというヤツであろう。瓶白は、微妙に意気消沈気味である。

「どこから話そうか。う~ん、そうだねぇ、スラブ人をキーワードとして進めようかな。ところでジョーキ、英語で言う、奴隷(スレイブ)の語源って解る?」
「そこまでヒント出されたら、話の流れで解るよ。スラブ人の話を振られた後だろ?……俺は今まで気にしなかったけど――ひょっとして、奴隷(スレイブ)の語源は、スラブ人からなのか……?」
「――正解。文化の中央をローマやギリシャとすると、中央から離れたカルパティア山脈にへばりついて生きているスラブ人っていうのは、戦争における恰好の勝利報酬。武力を持って蹂躙し、奴隷を戦利品を持ち帰るわけ。意味のわからない言葉を話す人をバルバロイっていうんだけど、これって、まさにギリシャ人から見たスラブ人のこと。バルバロイは、野蛮人(バーバリアン)っていう言葉の語源だったりもするけどね」
 姐さんは、瓶白を気遣いながらも話を続けた。しかし、それがフス戦争と、どういう関わりが?

「あとは、ギリシャ北方のマケドニアという場所に、徐々にスラブ人が移住してビザンツ帝国全盛期の9~11世紀前後には、マケドニアではスラブ化が進行。マケドニア朝もできていたんだけど、ここで二人に質問。ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教による、相互破門の話は知ってる?というか覚えてる?」

 俺と瓶白は頷く。イタリア・ローマのカトリックの偉い人と、今で言うトルコ・イスタンブールの正教会の偉い人同士が、互いに〝あんたなんか嫌いよ~顔も見たくない・フン♪〟の相互詠唱とも、あるいは「俺が破門してやる」「いや前から俺は破門してた」「俺はその前」「いや俺はもっと昔」「それじゃ改めて二人同時にいきますか?ハイ」とも言われている、互いに仲良く破門し合ったという子供の喧嘩みたいな話。11世紀の、1054年だっけ?

「そこで、西にあるローマ側は、西方教会――ローマ・カトリック――として、一方、東にあるコンスタンティノープル、今でいうならイスタンブール側は、東方教会――正教会――と、それぞれ違う立場を取ることになった、のはいいよね?」
 頷いておく。そういえば、ここからカトリックと正教の大きな溝が始まったのだな。

 俺は、薄すぎるキューリが挟まれた妙に庶民的なサンドイッチを食べ尽くし、次にスコーンへと手を伸ばした。なるほど、スコーンは裂いてから乳脂肪(クリーム)か、ジャムを塗るのか。試しに塗った乳脂肪(クリーム)は風味が濃厚で、滑らかなバターのような感覚。ジャムは、おそらく黒酸塊(カシス)か……。

「そこまで時代背景が理解できているんだったら、あとはサクサクすすめるよ。
 事前に瓶白さんに聞いておきたいんだけど、プロテスタントに脅かされる前のローマ・カトリックって、ラテン語表記された聖書を、現地翻訳することに対し、かなり嫌ってた事実があるよね?」
「今では共同訳もあるのですが、当時は……牛王姉妹の仰るとおりです」

 俺は漠然と知っていた〝共同訳〟について、二人に尋ねてみた。
「そう言えば〝共同訳〟って、何が〝共同〟なんだ?福音商会に置いてある聖書に記載されていたと思うが……」
 俺の質問には、瓶白が答えてくれた。
「そうですね、日本だと……二十数年前に(作者注:1975-1976年)フランスで、カトリック教会とプロテスタント諸派の共同作業によって作られた〝共同訳聖書〟を手本とし、この国で作られた共同訳聖書を指すと思います」

 姐さんが、瓶白の発言をフォローする。
「瓶白さんが言っている共同訳には新旧二種類合って、〝イエス〟様を〝イエスス〟様と表記している1978年の通称〝旧共同訳聖書〟が古い方。その後、慣れ親しんだ言葉使いに戻した〝新共同訳聖書〟というのが1987年に出て、今は普及している……歩み寄りがある今ともかく、昔のローマ・カトリックは、ラテン語が中心だった、というのはいいかなジョーキ?色々と、教会側の〝説教者として優越した権利〟という明白なメリットがあるのは、寺出身のアンタにはいちいち言わなくても解るよね」
 俺は首肯した。
 未だに仏教のお経は漢文中心。多少は慣れ親しんだ日本語による〝和讃(わさん)〟というのもあるけれど、在家の人には到底それだけでわかりにくいと思う。お経とは、解らないからこそ上から目線で指導する、という立場を維持可能とするための道具という意味もある。例えば、坊主が布施を受け取るためには、尊敬できる人間でなければならないという前提がある。尊敬されていなければ、ただの糞坊主でしかない。その尊敬の差を生み出すのに知識の差を使う事は、実にシンプルではあるが、有効な方法である。昔の文筆家ならば書生を住み込ませでは、様々な雑用に使役したように。何かしかの少数しか持ち合わせていない〝偉い〟という見えない事実は、他人から嫌がられることなく利益を吸い上げるのに、必要な大前提でもあるのだ。

「当時のローマ・カトリックの支配地で、聖書を無理矢理現地語に翻訳して、現地語(ネイティブ・ランゲーヂ)で主を讃えたりしちゃったりすると、どうなるんだっけ?」
 姐さんは、深刻な話へと進まないように、と言う意味があるのだろう。笑いながら瓶白に問いかけた。
「……破門、火刑、焚書コースです。ひどいです、牛王姉妹はあえて私に話を振るんですね。――仕方ありません、今日は悪役に徹します」
「ハイそこ、現在の善と悪、酷い・酷くないの価値判断は、歴史に持ち込まないこと」
 言葉の内容は重そうだが、実際にはこれら会話を軽く冗談めいて語っている。門外漢の俺は、よくわからない点もあるが、会話の空気から、場が深刻な状態に陥っていないとは理解している。

 俺も俺なりに気遣い、ウマイ事をいってやろうと単身で挑戦した。
「ハイネの『焚書は序章に過ぎない。本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる』は、真実だったのか。
 ところで、聖書を訳すと人を焼くって、〝訳〟と〝焼く〟の掛詞だな」
 
 ――しばしの静寂が茶室を襲った――

「話をスラブ人に戻すとね、9世紀から10世紀初頭、今のドイツの西側に、モラヴィア王国ってスラブ人による王国があって、大半はスラブ人。後は少数のドイツ人とかも居たみたいなんだけど。
 そのモラヴィア王国は、地政学的に大国〝神聖ローマ帝国〟の前身である〝東フランク王国〟――現在のドイツ・オーストリアの地域――のすぐ東側に位置しているために、なにかと西側への領土展開に困っていた国でもあったみたい。
 東フランク王国の西側は、西フランク王国で、これは後のフランス王国。その領域は、たっぷりどっぷりと、ローマ・カトリックの世界。フランク王国はローマの真北ぐらいに位置するからね」

 俺は、姐さんに尋ねた。
「その神聖ローマ帝国やフランク王国がローマ・カトリック系だったとして、モラヴィア王国の宗派は?」
「ジョーキ、そこが実に面白いポイント。
 モラヴィア王国は領土拡張のすえ、自国西側にある巨大国家・フランク王国と領域を接した時には、一度はフランク王国に服属し、カトリックのキリスト教国家となる立場を取った……けど、ただ大国に膝を付き、圧迫を受けるだけって、面白くないよね?
 そこで言葉の通りの後盾(うしろだて)――モラヴィア王国の〝西〟が圧迫してくるなら、〝東〟と組めばいいじゃない、カトリックよさようなら!ハローであります正教会(オーソドクス)!という発想で、モラヴィア王国よりさらに東にある、ビザンツ帝国(インペリウー・ローマーヌ)と仲良くなる方針をとったみたい。他にも、スラブ人の多い、ブルガリアとも仲良くなろうと画策。
 長年〝奴隷(スレイブ)〟扱いされていた辺境の人々が本気を出すと、中央政権が予測不可能な〝異常な能力〟を発揮するという、銀河の歴史がまた一ページ増強されちゃう案件が、ここでも色々と発生するんだけど……その一環として、マケドニア出身の――少し前の話、覚えている?マケドニアなので、恐らくスラブ人なんだけど――〝キュリロス・弟〟と〝メトディオス・兄〟という二人の天才語学兄弟にしてビザンチン修道士(モンク)を、宣教師としてモラヴィアに召還してメデタシメデタシ。二人は幸せになりましたとさ」
 いや、無理矢理ハッピーエンドで話を終わらないでくれ。

「あ、単に幸せになったんじゃなかった。
 その〝キュリロス〟と〝メトディオス〟は、独自開発したグラゴル文字(・・・・・・・・・・・・)を使い、古期教会スラブ語(オールド・チャーチ・スラヴォニック・ランゲージ)で書かれた新約聖書と詩篇等を作って、正教会の布教をモラビア王国で行ってたの。ビザンチンは東方教会だから、正教会なのは解るよね?
 ちなみにグラゴル文字は、今現在のロシアでも使われているキリル文字の、元祖とも言われている文字。
 このおかげで、スラブ圏の教会では未だにもの凄い崇敬を受けているよ、この二人は。しばらく紙幣に肖像画が使われていたぐらいに。正教会・カトリック教会・ルーテル教会のいずれにおいても聖人。亜使徒の扱いを受けているぐらいに。
 当然ながら、ラテン語による布教利権を脅かされたローマ・カトリックとその二人は布教方針を巡って激突!その兄弟にはローマ・カトリックから出頭命令が出るんだけど……この兄弟が異色の天才過ぎて、当初の予定とは正反対に、ローマの教皇はこの二人の活動を支持してしまう結果を招いてしまったみたい……この頃のローマ・カトリックは、まだ緩かったのかもしれないね。相互破門前の9世紀後半の話だし」

「その話、俺は全然知らなかった……キリル文字とかも」
 俺がそう答えると、姐は
「あれ、ジョーキは知らなかったんだ?この後も、世界史を取らないからわからないだろうけど、私大の入試でキュリロス兄弟を題材にした問題は、時々出てるよ」

 姐はスコーンに、異様に濃い味わいの乳脂肪(クリーム)を塗りながら、話を続けた。というか、俺が楽しみにしている乳脂肪(クリーム)を、全部取るのはやめてくれ。

「色々と細かい話は飛ばすけど――モラヴィア王国に、9世紀後半には独自翻訳の聖書があったっていう話は理解した?残念ながら当時の写本とかは残って無くて、もう少し後の時代の聖書しか現存していないみたい」
「了解」
 俺のみならず、瓶白も首肯。

 俺が楽しみとして少し残していた乳脂肪(クリーム)は全て、姐のスコーンに全量つぎ込まれた。それを囓りながら、姐は続けた。
「実は、このスラブ人の現地語聖書が、後の世を揺るがす爆弾の火種となる訳。
 もし、古期教会スラブ語(オールド・チャーチ・スラヴォニック・ランゲージ)の聖書が世の中に存在せず、ヨーロッパにはラテン語、あるいはギリシャ語の聖書だけしかなかったら、プロテスタントというのは、もしかしたら世の中に存在しなかったかも知れない……」

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作者コメント
 ウィクリフの「アン王妃の聖書」のため、当初の予定よりも1セクション伸ばしてみました。端的に書くのは難しいですね。

 次回はウィクリフの「アン王妃の聖書」「化体説(トランスサブスタンティエーション)の指摘」で行きます。それからフス→ルターさん俺TSUEEEEE!95連続ずっと俺のターン!カトリックのターン無し、農民もターン無し、オスマンもターン無し、子作りも晩婚ながら6連続俺のターンで6連勝!の流れ、になる……かもしれません。

 マケドニア人(スラブ人)の件は、第二章のサンタクロースの島編でも出てきます。その第三聖堂の床モザイクを寄進したのがマケドニア人の金細工師だったりします。

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