【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

1-11 百合ちゃん

エピソードの総文字数=1,978文字

あー、もう9時かぁ~。
油断してたらすっかり遅くなっちゃった……。
 ようやくチェックの終わったリストやグラフをプリントアウトしながら、百合は立ちあがって大きく伸びをした。
 残業続きだった。
 会社のデスクでパソコンのモニターを見ながらコンビニの弁当で夕飯をすませるのは、今週もう2度目になる。社員数が40人に満たない商社で、人手はいつも足りない。専門学校卒業後にこの会社に入り……4年目に突入した百合は、もはや確実な成果を期待される社員のひとりに数えられていた。
飯野さん、プリントアウトは俺がまとめとくから早く帰りなよ。おちびさんが待ってるんだろう?
 同じように残業していた男性社員が、そう声をかけた。
どうかしら、お友達のところで夕飯ご馳走になるってメッセージ来てたし、案外羽根伸ばしてるのかもしれませんよ
まだ中学生だろう? あんまり放っておくと非行に走るぞ。――ああ、帰る前にコーヒー入れてくれるかな? 他の連中には自分でやらせるから、僕の分だけでいいよ。お礼にタクシーチケット融通させてもらうからさ。
 部長までが冗談めかしてそんなことを言った。
(非行かぁ……。そんな甲斐性なさそうだけどな、果歩には)
 部長の『非行に走る』は何かにつけて出てくる慣用句だった。
 例えば部下のところに生まれた赤ん坊のことでも、女性社員の婚約者のことでもいつもその台詞が出る。オヤジがしっかりしないと子供が非行に走るぞ、わがままばかり言ってると婚約者が非行に走るぞ……などなど。生真面目に取り合っていればキリがなかった。
(この狭い人間関係じゃ、プライベートなんてしゃれた言葉は死語も同然よね。……さすがに丸三年もいれば受け流すのも馴れたもんだわ)
 百合が姪を引き取った……という話も社内では知らない者はいなかった。ねぎらいの言葉をかけられることも多いのだが、どうも百合にはピンとこない。
 中学生にもなればさほど手もかからないし、果歩の生活費は亡くなった両親が残した貯金と保険金でまかなわれているから、経済的にも大した負担ではなかった。大した苦労はしていない。引っ越しと、役所の手続きやら果歩の学校の転入やらで何日か休みをもらっただけで、あとは以前と変わらないペースで仕事を続けている。それで特に問題が起きたということもなかった。
デートをするヒマもないだろう。
 ……という部長の言葉は、セクハラだと冗談交じりの指摘を受けて以来聞く機会がなかったが、結局話をまとめて見るとみんなが言いたいのはそのことなのだろう。
 実際、考えて見ればこの会社に入って以来、彼氏なんて存在は遠いものだった。
 忙しいから……というだけではない。専門学校に通っていた頃まではちらほらとそういう相手もいないではなかったが、恋愛に燃える同僚の女性社員と見比べれば、あまりにもしょぼい記憶だ。本当にあれを恋愛と呼んで良かったのだろうかと思えてくる。
(……14歳の初恋と同じ気持ちで誰かを好きになることなんて、きっともう一生ない)
 スマートフォンの着信音がSNSメッセージの新着を告げたのは、コーヒーの支度をし、タクシーチケットは丁重に辞退してタイムカードを押したときだった。
『果歩ちゃんを預かっています。ご連絡下さい』
これってまさか……。
誘拐?!
 文面を読んだ瞬間に、その単語が思い浮んだ。
 アカウントは果歩のものだった。おそらく果歩のスマホを使って送信したのだろう。誘拐犯がバニーちゃんストラップをつけたピンクのスマホでちまちまとメッセージを打っている姿はおそらく目を背けたくなるくらいに間抜けだろう。……が、とりあえず今はそんなことはどうでも良かった。
 百合は文面に続いて書かれていた電話番号を震える指で押し、もどかしく呼び出し音を数えた。そうしているあいだにも、身代金、三面記事、ワイドショー、深夜のサスペンス劇場……と、さまざまな想像が走馬灯の如く脳裏を駆け巡る。

 呼び出し音は3回目で途切れた。
み、身代金なら払いますから! だから早まった真似はしないで!!
 誰かが電話口に出たその気配を感じた瞬間、百合は上ずった声でそう叫んだ。

………………。
 一瞬、躊躇するような沈黙があった。
………………身代金、ですかぁ?
 オウム返しにその言葉が戻ってきた。
 凶悪な誘拐犯という百合のイメージとは裏腹に、その声は穏やかな女性のものだった。
え、ええと………………。
どちら様かしら。お金のお話なら……番号をお間違えじゃないかと思うんですけどぉ。
あ、あのあのあの、ええと、私は飯野百合と申しましてですね……。
まあご丁寧に、どうも。
え、ええと……。
 言葉に詰まった。
 多分、自己紹介なんかしている場合じゃない。そんな場合じゃないと分かってはいるけれど……。
 こんな状況に適した言葉なんか、そうそう見つかるものではないのだ。

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