いかに主は導きたまうか。

4. Good News 福音書。

エピソードの総文字数=1,473文字

  聖書に挑戦したのは今のボクの状態でこれをとり入れるのは面白いと思ったからに過ぎなかった。今なら読みこなせる。おかしなオルグ(取込み)としての仕掛けがこの本の中にあったとしても冷静に対処できる自信があった。しかし、そのような相手ではなかった。「これはただの史実ではないか!」。そのドラマの展開は重厚で真実味に溢れていた。書き手は必要最低限で、しかし余す所なく、確かにあった出来事を知りえた事実を伝えようとしていただけだった。懇切丁寧に格調高く。言葉で飾ることは一切ない。作品としては次元が違う。これは人だけによる創作には思えなかった。*聖霊の干渉が当然あったのだろうと思う。

  イエスは罪人の為にきたこと。教えは罪人の為にあると宣言されることに自分へメッセージを覚えた。そうだボクは罪人だ。ボクだけが知っていること。罪深さでさえ誇りとして語るおぞましき存在が自分の中にはあることを...。*この内容においては別途、違う独立した項をいつかもうけなければならないだろう。

  またヨハネが水による洗礼ならば、イエスご自身のものは”火”よるもだと伝えられることに明確な宣言を見た。火は端的には”苦しみ”ということだ。心の確執葛藤、試練、痛み、欠乏における忍耐がそれだ。*後年、[タパス]という概念をヨガから知る。サンスクリット語の意味は、”焼く”、”焼き尽くす”で、効果は洗い、純化だそうだ。

  イエスが有罪の判決を受け、刑吏たちに引き渡され陵辱ともいえる扱いを受けるシーンは恐ろしかった。心底恐怖を覚えた。人間は何ということをしてしまったのだ、と。また、全てを見通した上で、十字架に手足を釘で打ち付けられる、屠られるの場へと時へと粛々と歩を進められるイエスが信じられなかった。恐ろしくて冷静でいられる訳がないであろう。人なれば....。いかに神の子たる存在ではあっても、肉の体をわざわざまとい、その制約の中に生きられていたことは間違いない。そう言った条件であえてことは行われなければならなかった。それが神の新しい契約(ご計画)だったのだ。あのゲツセマネの祈りにおける心情の吐露は告白は本音だったと思う。血の涙は真実だったと思う。しかし、最後は”御心のままに”で祈りを終えられる。*そうだこれも術式だ。これに倣いなさいということだ。凄すぎる。人間ドラマとしては空前絶後のものであろう。

  またカフェテリアで尚子さんに会った。こないだもらった聖書を読んでいると伝える。「あれ普通の本ではないね」と話した。あと長いマントラみたいにも思えたことを伝えた。4種はそれぞれ打ってくる所が違うと話していた。尚子さんはボクが聖書を読むべき時だったのよと何かの思いを押さえつつ、ただあっさり楽しげな様子で言ってくれた。あとボクの中のなにかが怒り狂っているみたいな話をしていた。「あんなに色んなものを見せてやったのに」と。そんなの放っときゃ良いわよと尚子さんはゾンザイにアドバイスした。最近、出会った男の話をした。公園を一人で散歩していて噴水のある大きな池の淵に腰掛けていた時、一人の若い男性がボクに話しかけてきたのだ。とても穏やかで大人しげな人だった。彼は神を捜しているとのことだった。この話をすると、尚子さんはバカみたいと、嘲りともとれる少し怒ったニュアンスで言った。探しまわるべき存在ではないのだろう。

こんどの週末に川下りにみんなで行くので一緒に来なよと誘ってくれた。フィアンセの彼氏とその友達の集まりだそうだ。ボクは迷うことなくオーケーした。

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