パナギアの童女は茶室で微笑む ――その女は死を知らず、ただ眠るのみ――

プロローグ:血まみれの八月、テロリストを添えて

エピソードの総文字数=6,276文字

「ただの観光客(ヴィジター)にいきなり発砲とか、(テロリスト)も思ったよりヤル気だね~。もっとエーゲ海の夏季休暇(ヴァカンス)を楽しめばいいのに」
 兄貴は、溜息混じりに言い放つ。だが、その顔はどこか楽しそうにも見えるので、俺は訊いてみた。
「兄貴、暗黒三要素(ダークトライアド)の封印、消えかけてるだろ?命の危機だというのに、楽しみすぎ」
「そうはいうが、状況が状況だ。『弟である金剛寺常悦(こんごうじじょうき)が、お嬢様を怪我一つない状態で帰国させる』って、お嬢様の父親と約束してしまった手前、どこまで本気出せばいいのか、悩んでしまう。とりあえず、明日から本気だそうか」
 兄貴よ、勝手に俺の名を出して約束するな。そして明日じゃない、今から、いや、毎日本気出して生きろ。

 夜の帳が下りた頃、九ミリパラベラム弾が我々四名が乗ったレンタカーを後方から襲う。迷い込んだ山道には街灯もなく、人も家も店もない荒地。松とオリーブの木だけがポツポツと点在し、(まれ)に崖の上で休んでいる野生のヤギとすれ違うだけの山岳地帯で、我々日本人観光客は、命の継続が相当レベルに危ぶまれていた。平たく換言すれば、ヤバくて死にそうってヤツである。このままでは、事の次第によって、俺の恥ずかしくも拙い卒業文集と、卒業アルバムから抜き出されたピントの合っていない不気味な笑顔のダブルピース映像が、電波とネットによって一気に全国レベルに広がってしまう懸念がある。マスコミよ、死体に鞭を打つのはやめてくれ!
 とにかくここでは空の星は美しく、乾いた空気に銃声と、後部座席からの女の悲鳴はよく響いた。

 この車、前には俺と兄貴、後ろには(ねえ)さんとカトリック女子でお嬢様の瓶白(みかしろ)、と都合四人が乗車しているのだが、ついに背後から強烈な破裂音がしたので、俺はまためんどうなことになったなぁ、とか、そういや夕飯も食っていないなぁとか色々な思いを巡らせつつも振り返ると、車の後部右タイヤは今しがた、被弾、爆散したところであった。

「兄貴、本気出さないとその約束、反故になるかも」
 俺は兄貴の本気(マジ)行動を急かした。兄貴は面倒そうに呼応し、エンジンを切りながら矢継ぎ早に話したてる。
「一旦車から降りる。銃を携帯した敵の数は四人、狙いは(ハッカー)の生け捕り。なので、私は単独で敵を誘いながら右方向、それ以外、三人の(おんな)・子供は危機回避のために左方向の松林へとダッシュ。異論は認めない。これは話し合いではなく、指示と思ってくれ」
 コラコラコラコラー!何がハッカー(・・・・)だ。世界中の携帯電話とルーターはおろかWiFiやBluetoothにまで裏口(バックドア)を仕込み、世界中の要人の恥部を握っては(てのひら)の上で自在に転がし、遠隔操作のために携帯電話からバッテリーを取り外せなくした張本人、すべての暗号を見るだけで解く事ができる異能数学者(キチガイ)にして、全人類の敵(アーチエネミー)、教科書に載せられないレベルの史上最悪のクラッカー(・・・・・)のくせに。後ろから震えた高い声で瓶白が兄貴に訊く。
「お一人で大丈夫ですか?」
 兄貴はニヤリと笑って、懐に刺さった模造銃(モデルガン)を見せ、急ぎ車を降りた。もっともその模造銃(モデルガン)、というよりは水鉄砲、中身は只の〝うがい薬〟でしかないが。
「皆、悪いな……だが、すぐ終わる。百四十秒、いや百六十秒ほど逃げてくれれば、私が敵全員の戦意を挫こう。いざとなれば黒騎士(ブラックナイト)もある」
 完全に中二病を罹患した、いわゆる本気な兄貴はそう言い捨て、右側へと走り出した。俺も車から降り、言葉足らずの兄貴の言葉をフォローした。
「瓶白、誰であれ兄貴への抵抗は無意味(・・・・・・)だ。さ、行こう姐さんも」
 瓶白を降ろした後に姐さんを良く見ると、顔色が悪い。脚も震えている。
「姐さん!?」
「――腰って本当に抜けるんだ――た、立てない」
 とっさに腕を掴んで車から引きずり出し、姐さんを背負って走る。
「姐さん、失礼します……百四十八センチと小柄な割りには、意外に」
 最後まで言い終わらない間に、
「――少し黙る?知識ある(・・・・)ジョーキ君」
 と、姐さんの一喝。なるほど、雄弁は銀、沈黙は金。いや違う、〝言葉を少なくする者は知識のある者〟箴言17:27。いやぁ、昔の人は、頭が良かった。奇しくもこの三人、俺、姐さん、瓶白は、言葉を交わさずとも、茶室での誓いを思い出しているに違いない。
「瓶白はッ?」
「後です!」
 声のする方向へと手を伸ばし、彼女の小さい手をしっかりと掴んだ。遠慮なく全力(・・)疾走を開始する。が、女性二人の加重はかなりキツイ。テロリストの乗った車はキリキリと音を立ててUターンした後、我々の乗っていたレンタカー付近で車を停めた。
 我々〝たやすくは切れない三つよりの綱〟を茶室で誓った三人はその頃、兄貴の指示通り、目の前に広がる松林の中に入ることに成功した。この松林、かなりの急勾配で海側へと下っている。そこにはそれなりの樹齢の松が、それなりの間隔で生い茂り、松の根元にはところどころに白い木箱が設置されていた。この先、滑り落ちる速さで転倒せずに駆け降りるには、短距離走の能力というよりは、重心バランス維持と地形を把握する視力を必要とする。バランスを取るために、瓶白の手を一旦離す。

「テロリスト三人はお兄様の方へ、一人はこちらに来てます」
 姐さんを背負ったために後方が見づらい俺を気遣い、瓶白は俺に告げた。なるほど、例えば兄貴が抵抗した場合、俺たちを人質に使うとかの、そういう目的か。チラリと確認のために振り返る。ああ、やっぱり。四人の中でも最年少っぽい奴が来た。(ベテラン)から順に三人は、標的である兄貴狙い、と。しかしマズイ。兄貴と違い、俺は銃を持った敵にはまず勝てない。一対一ならともかく、お嬢さん方二名の無傷、を最優先課題とすると、選択肢がかなり減る。例えば松が盾になるとしても、弾の初速は音速を超える。その貫通力があるため、絶対的な安全はこの松林には存在しない。兄貴の助けが入るまで、テロリストと距離をとり続けるのが、現時点での最適解だろう。

「試錬を耐え忍ぶ人は……約束されたいのち(・・・)の冠を……」
 姐さんの言葉――恐らく元ネタはヤコブ1:12――が耳に届いた途端、俺を掴む彼女の力が消えた。完全に失神した姐さんを両手で抱きかかえ直す時、かなり遅れ気味の瓶白を振り返って見ると、彼女は携帯電話をチラ見ていた。あの、今はそういう場合じゃないんだが。彼女と眼が合う。
「――お兄様からの伝言文(メッセ)がありました」
 落胆した声で彼女は俺に告げた。なるほど兄貴は俺の手が塞がる事はお見通し、だから瓶白へ伝言文(メッセ)、か。
「で、何て書いてあった?」
 下り道を駆けながら俺が訊くと、一息置いて瓶白は答えた。
「――〝がんばれ〟と」
 瓶白、嘘をついたな。本気(マジ)行動時の兄貴は、「冗談」「指示」「勝利宣言」、その三つしか口にしない。特に、兄貴の無制限にして非共感的な一方的な陵辱(サイコパシー)資質が突出した現状では、他人を思いやる行為はあり得ない。ただ、その伝言文(メッセ)を読んだ後の瓶白の瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ出していた。彼女の足は止まっている。三人中二人までもが、移動困難に(おちい)るこちらの現状は、いずれにせよ危機状態にある。兄貴の概算による、約束された勝利の時間まで残り約100秒程度。動ける俺が、腹を決めるしかない。俺が今、やるべきことは何だ?このままではこの三人、只の動かない標的(ターゲット)でしかない。俺が二人を抱えて走ったところで、低速では逃げ切れない。俺よ、冷徹になれ。無事で済む確率が最も高いのは?――考えるまでもない解だが……一瞬躊躇(いっしゅんちゅうちょ)した。弱いな、俺は。

 動けない二人をここに捨てよう。三人そろって動かぬ標的(ターゲット)になるのは悪手だ。この窮地で、わざわざ敵に、初級(イージー)モードをプレイさせる必要はない。

「瓶白、姐さんを頼む。今から瓶白と姐さんを見捨て、俺は独りで逃げる。短いつきあいだったな」
 可能な限り、冷たい言葉を贈る。言葉の絶望よ、彼女の脚をここに(とど)め給え。俺は兄貴ほどのサイコパシー資質がなく、兄貴ほどには、冷たくなれないのが難点だ。ただ、せめて彼女達ぐらいは、公正な御大事(アガペー)があふれる世界の中で、残りの人生を夢を見ながら謳歌してもらいたい。彼女たちが受ける絶望は、俺がすべて背負う。
「駄目!それだけは絶対に」
 俺の提案を否定する瓶白に無理矢理に姐さんを預け、先刻までは降りてきた斜面を、俺は再び全力で駆け登っていった。

 若造テロリストに、俺の方から近づく。これが現在の最適解。この三人の中で、俺の命が最も安い。30円?いや50円ぐらいの価値しかない。女二人で時価数十億円級の護衛費用が50円以下で済むなら安い。低金利時代でも利息で支払える実にリーズナブルな範囲。俺の方からテロリストに近づけば近づくほど、女二人にテロリストが到達するまでの時間は延びる。また、俺に(すが)る瓶白を振りほどく時に、偶然にも俺は見てしまった。彼女の手にした携帯に映る、兄貴からの通信文(メッセ)を。

〝弟はこの後100%死ぬ。後処理よろしくお嬢様〟

 ――心の迷いは消えた。やはりそうか。最初から、正直に言ってくれればいいのに。兄貴の不気味な確率計算が当たる事は、嫌というほど知っている。それは、俺が保証する。

奇しき薔薇(ロジエ・ミステール)の花を散らすな、散ってしまえば御役御免(おやくごめん)
 嫌な言葉だ。誰が散らすものか。俺が護る。ついでに、彼女たちの卒業文集・卒業アルバムの流出は、俺が阻止。死が、俺の肉体と魂を分け隔てるその瞬間(とき)まで、俺はテロリストの気を()くだけ、実に初級(イージー)プレイ!

***

 結局この後、やはり俺は人質になるどころか、功を焦った若造テロリストのヘタクソな射撃を受け、兄貴の計算通り死にそうになったそうだが、よく覚えていない。そして姐さんは不幸中の幸いで無傷。そもそも、テロリストの襲撃前後の記憶を入念に消されていたのだ。畜生。受けたはずの銃創すら残っていない。……後から、逆行催眠を自分に使い、断片的に思い出せたのは、捨て身の〝捨て肝(ステガマリ)だよ、鉛弾!撃てよ放てよ、なるべく全弾・絞りつくし作戦〟による俺の意図的な被弾十二発、とっさに俺を庇おうと飛び出した瓶白の被弾一発、兄が投げた蜂の巣箱を後頭部に受けて倒される若造テロリスト、血まみれの瓶白が事実上ほとんど死体の俺に(プネウマ)を吹き入れたこと、彼女の祈りが俺を満たした事、それから鳩が鳴いた事、炎、どこか非現実的な夢の中での祖父と姐さんとの邂逅、ぐらいか……。いやまて、走馬灯で姐さんと邂逅って、ひょっとして俺は姐さんの事が好きだったってことか?ありえない。ありえなーい。あーりーえーなーいーよー。

ク――
クポッポ・ポ―ク―

「――『確率』が外れるとき、それは予想外の聖霊(ルーアハ)の力が動く時。死ぬ定めすら否定し、死なずに済むとは奇跡(・・)だろうか?おかげで私は念願の――それ――を今、手に入れた。あの岩、(いな)、聖ペテロから手放された賜物(たまもの)第三の天の鍵(ヘヴンズ・キー)』、かくのごとく知り、かくのごとく借り受けた。今後は仲良く鍵を共同管理しようではないか。〝賜物(たまもの)は、お互のために役立てるべきである〟とペテロ当人も書き残している。悪い話ではないはずだ。
 これで私は計画を一つ、前に進める事ができる。
 永遠の天都、あの〝楽園〟の共同統治――(いな)――

 ――再征服(レコンキスタ)、その方がいいかもしれんな」

クポッポ・ポ―ク――

***

 エーゲ海沿岸の観光都市にある、聖母マリアの家(ハウス・オブ・ヴァージン・マリー)観光を翌日に控えた我々は、そのそばにある小さな村、シリンジェ村に泊まるため、夕食もとらずに夜道を車で急いでいたのだが、その車が突然横道にそれた。

「すまんな、後輪がパンクしたようだ。弟よ、車を降りて手伝ってくれ。二人のほうが早い」
 俺と兄貴は車を降りた。兄貴の指示通り、俺が車のジャッキアップをしているとその間、兄貴はスペアタイヤを取り出していた。姐さんはこんな時でも、楽しそうに眠っている。兄貴がタイヤをはずしている時だっただろうか、記憶を無くした事に、フと気がついたのは。この俺が、『記憶映像を思い出せない』とはかなり悔しい。手が止まっている俺の顔を兄貴が覗き込む。
「弟よ、記憶の断裂に気づいたか?ま、とにかくこのタイヤ、車に収納してくれ」
「車のどこに?」
「後部、見ればわかる。それとな……タイヤの収納(しまい)方以外にも、後で色々説明する。ま、そういうことだ」
 ああ、全くあり難いお言葉……後方に奇妙な気配を感じたので振り返ると、少し遠くで炎と、立ち上る煙が見えた。山火事だろうか。その炎を観ていると、ぼんやりした頭が徐々にハッキリとし始めた。おかしい、ここには三人しかいない。
「あれ、瓶白は?」
 一人足りない事に、今更ながら気づく。俺の肉体は絶好調だが、思考がはっきりと定まらない。車に戻りながら兄に尋ねると、兄はこう答えた。
「お嬢様なら、先に今日の宿泊予定地、シリンジェ村に着いていると思うよ。寝てるんじゃないかな?〝土の下〟じゃなくて、〝ベッドの上〟で。さあ行くぞ、この死にたがり野郎」


――その女は死を知らず、
   ただ眠るのみ――

 俺と兄貴、姐さんの三人がシリンジェ村へと移動する道中、俺が死んだら、どっちにしても約束が反故になるんだから気をつけろ、と珍しく、やや真面目な顔をした兄貴から説教を食らっていた。どうせ食らうなら、アイランにケバブサンドがいいのだが。

---参考---
★箴言17:27 言葉を少なくする者は知識のある者、心の冷静な人はさとき人である。
★伝道4:12 人ひとがもし、そのひとりを攻め撃ったなら、ふたりで、それに当たるであろう。三つよりの綱はたやすくは切れない。
★ヤコブ1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
★ペテロ一4:10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。
捨て肝(ステガマリ):死ぬことを前提とした、敵の足止と時間稼ぎ戦術の1つ。
★白い木箱→蜂の養蜂箱→ラングストロスの巣箱:アメリカの牧師、ロレンゾ・ラングストロスの発明品。1860年に特許を取得。現在でもよく用いられている養蜂箱の形式。トルコやギリシャでは松の蜂蜜(パインハニー)が名物。日本では、ほとんど見かけない一品。
★アイラン:飲むヨーグルト。
★ケバブサンド:スライスされた複数種類の肉をパンに挟んだもの。脂が味の決め手。

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