オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第三十章 ハバクク書二章二十節

エピソードの総文字数=2,375文字

『しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。』ハバクク書二章二十節


 かつて、ある男を隔離病棟に護送したことがある。そいつはサイズも色合いも合っていないぶかぶかのジャージを着こんでいた。死んだような目に半開きの口元、その男の体臭は墓場の瘴気のように漂っていた。ところどころ禿げた頭を時々上下に振りながら男は車の窓から見える景色を眺めていた。俺はハンドルを握って田んぼの合間合間に一軒家に見える集合住宅がまばらに建てられた地区を横切っていた、
『あんな奴は世間からいなくなればいい』実の父親が吐き捨てるように言った言葉だ。それも息子に対して。その息子はアルコール中毒と重度の精神障害を負っていた、そして年老いた両親に対して暴力を振るっていた。母親は頭がい骨と腕を折られていた。
 俺は下請けのようなものだった、大手の何でも屋が自らの部下を傷つけないように、下請けのどうでもいい末端を前線に送り込む、。その日は俺がそうだった。
 だが俺は少々勝手に動いた。その男の過去を掘り起こしていた。父親は会社員で母親は専業主婦、どこにでもあるような一般的な家庭だったが、男が幼いころに昆虫の四肢を捥いで悶える様を眺めていたと聞いた。さらに調べると父親は酒によってはたびたび母親に暴力を振るっていた、時として幼い息子でさえ蹴り飛ばしていた、時には理由が無いことでさえ理由となった。家庭は隔離された争いの部屋だった。暴力が常に重低音のように響いていた。
 俺はその男が気の毒に思えた。一歩違えば俺もそうなっていたのだ。そして男は助かる可能性もあったのだ、だが泥沼から引き上げられる代わりに頭から押さえつけられる羽目になった。だが俺に何ができるだろうか、結局、何もできずに護送するしかなかった。
 隔離病棟につくと俺は男の腕を取って、病棟のエントランスに白髪の従業員が待っていた。俺は彼に男を預け、よろしく頼むと伝えた。それで仕事は終わりのはずだった。
 踵を返し、出て行こうとする時に後頭部に衝撃が走った。俺は倒れてとっさに頭を抱えて身を丸めた。腕を足の間から覗き見ると、例の男がパイプ椅子を両手に持って振り回そうとし、従業員が必死の表情を浮かべて彼を押しとどめていた。
『殺してやる、お前ら全員殺してやる、なんで俺がこんな目に合わないといけないんだ、お前たちのせいだ』男は狂ったように叫んでいた。脈打つ頭から手を離すと、自分の手が血で濡れていた。
俺の中から男に対しての同情が抜け落ちた。俺は立ち上がって腰に下げていたマグライトを手に取り、男の顔面に至近距離でハイライトを浴びせた。男が悲鳴をあげて顔を押えた隙に、俺はマグライトを振り上げて男の頭に振り下ろした。一撃目で男は跪き、二撃目で頭から血を流して倒れた。俺は男の腹を蹴り上げ、ためらいも無く男の頭を踏みつけた。目の前で赤い斑点がちらつき、頭の中は早鐘のような心音が大音量で流れていた。
気づいた時、俺は従業員と備員五人がかりで取り押さえられていた。男は担架に乗せられて運ばれていた。奴の泣きじゃくる姿は幼い子供に見えた。

 結果には原因がある。その結果を繰り返したくなければ原因を知らなければならない、そうすれば少なくとも繰り返さずに済む。一度起きたことは変えられない、だが受け止め方は変えられる。ずっと昔の俺ならば……まだ若く愚かであった……あの担架に乗せられた男を自業自得と嘲り笑っただろう。そして自らの行いを悔いもせず。誇っていたかもしれない。
 だが思えばあの男自体が結果なのだ。そしてその結末を導いたのは家庭内の暴力、しいていえば実の父親だった。奴さえいなければ、あるいは真面であったならばあの男はもっとましな人生を歩めていただろう、俺を殴りつけたのはただ自らの人生を返してくれと言う叫びでもあったのだ。
 だがその実の父親でさえもまた結末にすぎない。奴もまたかつて暴力の餌食だっただろう。
 俺の父親もそうだった、常に不機嫌で人の話を聞かず、その場の雰囲気だけでべらべらしゃべって後になって手のひらを返した。不誠実のくせして人には誠実さを求めた、それどころか服従さえ求めた。母親はその父を憎みながらも表向きは従っていた、そのツケは俺の背中に背負わされていた。

 誰もが被害者だ、そして加害者になるのはさほど難しくも無い、一線を越えるのは実に簡単なことだ。被害者は慰めねばならない、でなければ誰がその傷を癒すのだろう、だが自らの起こした咎は償わせるべきだ、でなければ幾度も繰り返すからだ。
 癒し手は専門家の仕事だ、経験と訓練を積んだプロに任せればいい。だが償わせるのは狩人がすべきだ、それも奴らに対して熟知しているプロを。
 俺がその狩人だ。望んでやっていることではないが。

 すでに夕日が顔を覗かせ、空を朱色に焼いていた。そこにたなびく雲はまるで煙のようにもみえなくもなかった。だが俺はそれを地上から見上げなかった。。Y谷三丁目の十字路の交差点の脇にある雑居ビル八階の窓からそれを見た。そこに店を構えている焼き鳥屋の窓からだった。欲しかった連絡が届いたからだった。
 エレベーターが音も無く上がり、群青色の扉が退けられると東南アジア系の店員に出迎えられた。彼の片言の日本語に愛想笑いで答え、すでに二人ほど先に待っているのではないかと聞くと彼は手でそのテーブルを指し示した。
 俺は礼を言ってそのテーブルに向かった。そこにいるのは連絡を出したコナーとある男だ。
 その男はかつて荒川運輸に勤め、義彦の同僚だった男だ。もっとも今ではビルの清掃やゴミ出しをしているらしかったが、そのことはどうでもよかった。
 その男から聞きたいことがあるのだ、どうしても聞きたいことが。

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