ブラの名前

エピソードの総文字数=2,379文字

 「どうかしら、先生、採点してくださる?」
 書き終わり、そう言いながらテスト用紙を渡したとし江に、気楽はできるだけ優しく微笑んだ。
「いやまあ、絶対の正解なんてものはないんですがね」
と、言いながら、自分のペンでさも学校のテストのように丸をつけてゆく。
「さすがはクリスチャンの社長だけあって、よくご存じです」
 うやうやしく頭を下げながら、天使の名前に一つずつ丸をつけてゆく、める子も横から覗きこんでいる。
「ミカエル・ガブリエルはもとより、これは天使の階級ですがセラフィムやケルビムなんてのも、メジャーです。ラファエルやウリエルなんてのも、カトリックでは正典扱いされていないものまでご存じとは、いやはや恐れ入る」
「お恥ずかしいけれど、一時期異端とは何かということに凝ってしまって、ついそんな知識まで。無邪気な少女時代のことよ。」
 とし江のマニアックな知識には、さすがの気楽もやや驚いた。
 その代わり、仏教がらみとなるとからきしダメなことも回答を見ればわかる。当然ながら、家の宗教はキリスト教で、仏教の姿などみじんにも感じられない。
「お葬式、キリスト教式でやられているんですね」
「ええ、私の故郷はみな周りにカトリックが多かったものですから」
「ちなみに、ご出身はどちらです?」
「長崎ですわ」
 ああ、と気楽は頷く。長崎なら日本カトリックの聖地みたいなもんだ。他の都道府県と比べて突出してクリスチャンが多いのには、江戸時代から隠れキリシタンの伝統が関係している。
 次第に高まる胸を押さえながら、さも何げない振りをしながら、気楽は回答を読み進める。そして、彼が衝撃を感じた答えの箇所が、やってきたのである。やや、自分でも心臓の鼓動が早くなるのを感じているが、それを顔に出さないように慎重さを増した。
「あら、社長はクリスチャンなのに、エホバって答えてる」
 脇から見ていためる子が、思わずそう言った。気楽はそれには何も触れず、ゆっくりとその回答に丸をする。そして、
「長崎は、市内ですか?それとも五島あたり」
とさりげなく尋ねた。
「平戸ですわ。古い教会に両親とともに通っていたの。懐かしいわ」
 そう答えたとし江の表情が、一瞬あら、という風に変化したのを、気楽は見逃さなかった。
 それを見て、気楽は、『おそらく、自分の推理は正しい』と、確信した。だが、それは単なる推理だ。証拠も何もない、妄言のようなものだ、ということもわかっている。
 とし江が「エホバ」と書いた。ただそれだけのことで、この事件の謎がすべて解けてしまうだなんて、そんなおこがましいことがあってよいのか、とも思う。
 裏付けが必要だ、と気楽は思った。
「あらいやだ。わたし、今何かを思ったのだけれど、何を思い出そうとしたのかしら」
 とし江はふとそんなことを言い始めた。それから、まるで気楽とめる子がここにいることを忘れてしまったかのように、必死で何かを思い出そうとし始めた。
 自分が幼少の時からクリスチャンであったこと、そして気楽との話で出てきた長崎平戸のこと。そんな遥か昔の、子供の頃の思い出が、とし江の心の中に小さなさざ波を生じさせていることは、確かだった。記憶を辿っているのか、それとも何かを感じ取ったのか、とし江の様子が、それまで大きく変わってしまったのは、誰にでもわかる。
「社長、お疲れのようですから、いったん今日は失礼しますね」
 気を利かせて、める子が言った。年齢のこともある、無理をさせてはいけない、と彼女なりに感じたのだろう。ひじで気楽の腹をつつく。撤収の合図だ。
「ええ、楽しかったわ。また来てちょうだい。先生、本当にありがとう」
 そう言いながらも、ややどこか心ここにあらずな様子のとし江であった。
「では失礼します」
 二人で社長室を後にする。慌てて、める子が気楽に尋ねてくる。
「何?何があったの?社長どうしちゃったの!あんた何やったの?あのテスト、本物のクリスチャンが受けたらダメなやつなの?」
 矢継ぎ早に、質問責めにしようとするが、気楽にはまだそれに答えるつもりはない。
「ごめん。種明かしはきっとする。けれど、俺にもあと一つだけ調べたいことがあるんだ。明日一日、一人で行動させてくれないか?この会社にも来れない」
「ち、ちょっとどういうこと?社長はおかしくなるし、あんたはいなくなるっての?一体この数十分で何が起きたの?」
「謎はすべて解けた。三浦気楽の名にかけて、ね。ただ、証拠がまったくない。だから一日だけ、私に確信を持たせてほしいんだ」
 そう、両手を合わせて頼み込む。
「どういうこと?まさか社長が犯人だとかそういうこと?」
「違う。それはきっと絶対にない。だが、社長は何か思うところがあるんだ。だから、さっきは少しおかしくなった。でも彼女とて、戸惑っているんだと思うよ。俺にだって確証や自信はないんだから」
「言ってる意味が全くわからないわ!一人だけ真実を知ってるとか、ありえなくない?」
「だから、真実かどうか、それを確かめる時間をくれ」
 じゃあ!と片手を挙げて、小走りに走り出す。あーっ!、とめる子の呼び止めようとする声が聞こえるが、無視する。
 時間がない。
 まだ、知りたいことがある。
 確かめたいことがあるんだ。
 警備員室へ寄ってから、一刻も早くヴィクトリー・ファッションを出よう。
 今夜のうちに、長崎へ向かえる手段が何かあるだろうか。新幹線、飛行機、最終は何時だろう。あるいは、最後の手段で深夜バスか……。
「あほ!ぼけ!しんでしまえ!いやーん、もうできるだけ早く帰ってくるのよ!」
 遠くでめる子が叫んでいる。
「おまえはしっかりミカエルを作っとけ!」
そう叫び返して、気楽は階下へ向かうのだった。
 

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