オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第十章 コリントの信徒への手紙十章二十三節

エピソードの総文字数=3,308文字

『「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。』コリントの信徒への手紙十章二十三節


 結局あの質問の意図はわからなかった。おそらくわかろうとしても徒労に終わる類いだろう、知るのは神と彼女だけだ。夢奈の家を出て右に曲がり、急な坂道に差し掛かった。
「おい、そこのあんた、あんただよ。カーディガンを着たあんただ」
 背後から声を掛けられたかと思うと年老いた手が俺の肩を掴んだ。そのまま振り返ると不機嫌そうな中年の男に睨みつけられた。白髪交じりの頭髪はポマードで撫でつけられ、顔に刻まれた皺はクレパスのように走っている。特に眉間のしわの深さは彼のこれまでの人生がどういうものかを如実に語っていた。来ている水色の作業着も同じように皺が走り、しみついた煙草の匂いで息がつまりそうだった。
「あんたが家から出てきたのを見たんだ、一体誰なんだ?」彼がしゃべるたびにヤニの染み付いた前歯が見えた。俺は軽い笑みを浮かべてああと口にした。
「実は私こういうものでして」ごく自然に丁寧な口調でポケットから名刺入れを取り出しその中の一枚を渡した。彼は受け取ってじっと見た後、俺をつま先から頭までじろじろと視線を走らせた。その間俺は営業用の笑みを浮かべた。
「調査員補佐ねえ、つまり何か、半人前の探偵ってことか?」
「正確には便利屋みたいなものでしてね。あの家の人ですか?」
「ああそうだよ、あそこは俺の家だ。で、その便利屋が何の用で家に居たんだ」
「娘さんのことで調査しているのですよ、春崎義彦さん」
「娘、ああ、夢奈のことで何か問題でも?」
「いいえ、一年前に家出をした知恵さんの方です。彼女の行方を知りたいとの依頼を受けたので調査をしている次第で……」知恵の名前を出した時、義彦の眉がかすかに震えたのを見逃さなかった。彼は腕を組んで露骨に眉をひそめてため息をついた。
「あいつをか、一体誰があんたを雇ったんだ?」
「そいつは守秘義務でしてね。ここで会ったのもなにかの縁ですし、質問に答えてくれませんか?」俺は手のひらを見せて言った。しかし彼はただ鼻を鳴らした。
「一年前に家出したあいつを見つけようなんてあんたに何ができるんだ?もう警察に届け出はしたんだ、後は警察に任せればいい話じゃないか」
「しかし夢奈さんの話だと届け出はされていなかったと」
「俺が嘘をついているとでも言いたいのか?いいか、俺はきちんと書類を書いて届け出をしたんだ。それがしていないというのなら向こうのミスだ」
「そのミスをするような組織が娘さんを見つけてくれると?」
「あんたみたいな半人前よりも見つけられると思うがね」
 一瞬、俺たちの間で火花が散った。だがゆっくりと改めて笑みを浮かべて見せた。
「言い争いはよしましょうか。どうにもあなたは知恵さんの安否を心配しているようには見えないのですが」
「あんた節穴か?心配しているに決まっているだろう、親ってのは出来の悪い子供が居ても愛情は持っているんだ。だがね、あいつは親不孝者だよ、こっちが汗水たらして稼いだ金で育ててやったというのに引きこもったかと思えばいきなり家出ときた。こっちの身にもなってくれ」彼は眉間の谷間に更に眉を寄せた。口元が震えているのがはた目から見てもわかった。
「最近の若い連中は何を考えているのかわからんよ。俺たちが若いころは毎日頑張って働いたもんだ。だというのに今は労基法違反だとか、ブラック企業だとかいってすぐ楽をしようとするんだ。あんたもその口かね?」
「どの口なのかはあえて言わないが、ただ理解しようとしないだけじゃないかね?」
「ああ、そうかい。あんたみたいな連中にはわからないよな」彼はいかにもな侮蔑の笑みを浮かべた。俺は拳を握りしめる代わりに口を開いた。
「なにをそんなに敵視してくるのかわかりかねますがね。こちらはあなたの家出をした娘さんを見つけようとしているだけですよ。なぜあなたは調査に協力もせずに憎まれ口を叩くのです?」
「警察が見つけてくれるさ、それに何かあれば向こうから連絡が来ると思っているのでね。わざわざどこの馬の骨ともわからない奴に家の周りをうろつかれたくないんだ、わかるかね、世間体というものだよ」
「娘よりもそんなのが大事だと?」
「彼女は見つかるよ、ただあんたには無理だというだけだ。これで失礼するよ、まだ仕事中なものでね」義彦は俺をねめつけて踵を返し離れていった。俺は顎を扱きながらその丸っこい背中を見続けていた。

 結局考えても名案は出てこなかった。俺はそのまま歩を進めて駅に赴いた。そのまま改札口を通り三番乗り場への階段を上っている最中、スマートフォンが震えた。手にとって画面を見るとコナーからの電話だった。通話ボタンを押して耳を傾けた。彼女の声は聞こえたが向こうの雑音で何を言っているのかわからなかった。
「そっちの雑音がひどすぎて何を言っているのかわからないぞ」
 しばらく待っていると雑音が止み、コナーの澄んだ声がスマホから発せられた。
「これでいいでしょ、そっちはどう?」
 俺は初崎家で聞いたことと義彦に会ったことを話した。あまり感情と見解は交えずただ事実だけを伝えると彼女は押し黙ったまま何か考えているようだった。
「とりあえずご苦労様。それにしても父親にしてはずいぶんと他人事のようにとらえているのね。実の娘が家出をしたというのになんでそう邪険にこっちを扱うのかしら?」
「単純に信用できないとかじゃないかね、あるいは半ばあきらめているのか」
「まさかと思うけどあなた余計な口を叩いてないでしょうね」
「俺だって物分かりは良くしてるさ、自分の首を絞める時は限っているんだぞ」
「ならいいんだけど。それよりもS玉県警の方に行ってちょっと調べて来たわ。知恵さんの捜索願は一年前に出ていないわ、出されたのはつい一か月前、妹さんの名義で出されてたわ」「ということはあの父親は嘘をついていたということになるのか?」
「だとしたらどうしてそんな嘘をつく必要があるのかってことになるわ。もしかしたら本当に担当した警察官がきちんと処理しなかったからかもしれないわね。ほら覚えてるでしょ、ストーカーに付きまとわれているのに彼らに門前払い食らって私たちに頼ってきた人たちの事。どうにも家庭問題とか痴情のもつれとかになると彼らは及び腰になるから」
「まあな、覚えているよ。だがそれは置いておくとしよう」俺は壁に寄り掛かって歩行者の邪魔にならないようにした。
「いいわ、置いておきましょう。あなたから見てどうだった、彼らは?」俺はもう一度脳裏で春崎家でのことを思い返した。
「信心深いという評価はまず撤回すべきだな。表向きはそうかもしれないが、あの家の中はバラバラだ。分裂状態というかとにかく、夢奈の方は両親のことを良くは思っていないのは確かだ。聞いた限りだと随分とそう、首を突っ込んでいたようだしな」
「あなたの経験は役に立ちそう?」
「立つと思うな、どちらにせよ八割の家庭は機能不全だ、あの家も何らかの形で起きている。目に見えない形で虐待が起きていてもおかしくはない」
「ならあなたに任せるわ、その手については……ああ、そうそう」
「どうした?」
「葛城ちゃんがあなたに会いたいそうよ。また体験を聞きたいって」
「……物好きなものだな」俺はこめかみを親指で押した。あの猫なら速攻で早死にするような好奇心の塊は飽くことを知らない。
「そちらから都合のいい時に電話しなさいな、仕事以外で人と話をするのも大事な事よ」
「言われなくてもそうするつもりだよ、これから電車に乗るから切るぞ」
「ええ、今夜はパブにでも行く?」
「考えておこう」
 通話ボタンを切ってスマホをズボンに押し込んだ。電車は話をしている最中に行ってしまったが、またしばらく待てば来るだろう。
 ただ都内に入る頃には帰宅ラッシュに巻き込まれるのは目に見えていた

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