もしも敬虔な女子高生が〈神は死んだ〉のニーチェ作『ツァラトゥストラ』を読んだなら

『幸福の発明、そしてヴァーチャル・リアリティ』

エピソードの総文字数=3,164文字

「ニーチェでなぜヴァーチャル・リアリティ?」

今、君の脳裏にそんな疑問が生まれたかもしれない……。

(え? 浮かんでないだって? ちゃんとサブタイトルを見てくれたまえよ)

さて、今回は前回に引き続き、『末人』についての説明から、彼らが発明したという幸福と、ヴァーチャル・リアリティの関係を紐解いていこう。

現代のIT社会をすでにニーチェは見据えていたようなのだ……。

 見よ、わたしはあなたがたにそういう末人を示そう。
「愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とはなにか」ーーそう末人はたずねて、まばたきする。
 そのとき大地はちいさくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。その種族は(のみ)のように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。
 「われわれは幸福を発明した」ーー末人はそう言って、まばたきする。
「少々難しい比喩ですわね。このあたりは何を言っているのかしら?」
「僕のツァラ殿、手塚訳曰く『現代文明への批評』だそうだ。100年前にかかれているものなのでそのままズバリとは言いにくいが、なんとなく、今のIT企業やインターネットを指しているようにもみえないかい?」
「100年前にインターネットってあったんですか?」
「ないない。『ヴィクトリア朝時代のインターネット』なんて本も出てはいるがね。

 (あれはあれで面白い本だが……)

 今のようなコンピュータどうしがつながりあったインターネット社会なんてものは、もちろん当時はなかったはずだ」

「じゃ、どうして……?」
「ニーチェにそれだけ先見の明があったか、タイムマシンで過去にやってきた未来人を捕まえて聞いたのか、かな?」
「そうだったんですね! なるほどー」
「いや、後ろ半分は冗談だから、それで納得しないでくれたまえ……。」
「えー」
「おそらくは当時の人々の社会を見据えて、このまますすんだら未来はこうなる。と予測して書いたのだろうな。科学技術ではなく、人間社会そのものの未来を予測し想像して書いた、ある意味でSFなのかもしれない。サイエンス・フィクションではなくソーシャル・フィクションとでも言うべきか」
「なるほどー」
「って、ひとみちゃん、ちゃんとわかってます?」
「いいえ、ちっとも!」
「うぐぬぬぬ……。群衆に理解されなかったツァラ殿の気持ちがとても良くわかるよ……。」
「さすが栞理先輩です!」
「いや、あの……うーむ……。

 まあ、そんな冗談はさておき、とにかく、僕の想像上での類似点を当てはめてみると、

 最初の『愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とはなにか』は、

 ネット上のバーチャル世界でこれらのことを問いかけているような気がするんだ。

 そして、通信技術により世界は狭くなる、つまり『大地は小さく』なり、(のみ)のようなVR(ヴァーチャル・リアリティ)の住人たちはその上で活動(とびはね)し、長く生きつづけ、『われわれは幸福を発明した』とまでいうのだろう」

「VR(ヴァーチャル・リアリティ)の住人じゃなくても、IT企業の社長さんとかでしたらいいそうですわね。弊社は幸福を発明した!って。ろくろ回しのポーズで言い出しそう」
「ははは、なるほど。そうだな」
「え? ろくろ回し?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと前にそういうポーズ流行ったのよ。こう、胸の前でろくろを回すようなポーズで見えないものを説明するの」
「へええ。(やっぱりわかってない)」
「うん、たしかにそのような感じがするな。100年前にもそんな人々がいたかどうかは分からないが。
 この読み方で続けて読んでみると、意外に正確に現代のことを風刺しているようにも読める」
 かれらは、生きることがつらく苦しい土地を去った。生きるには(ぬく)みが必要だからである。そのうえ隣人を愛して、それと身をこすりあわせる。温みが必要だからである。
「隣人を愛せよ、か。例によってキリスト教をディスっているようだが、なんとなく現代のSNSのことを言っているようにも読めないかい?」
「本当ですわ。そんな風にも読めますわね。生きることが辛い土地って現実社会のことかしら?」
「バーチャルな社会のほうが温かいかどうかは微妙なところだが、SNSの住人にとってはそうなのかもしれないな」
「それでは、少し長めに、末人についての説明を連続して読んでみようか。SNS、IT、インターネット、バーチャル、といった現代風の感覚フィルターを通してみると、また違った印象になってくるぞ」
 病気になることと不信をもつことは、かれらにとっては罪である。かれらは歩き方にも気をくばる。石につまずく者、もしくは人につまずく者は愚者とされる。
(なにかにつまづいてはいけない……。今ですと心の病気とかもありそうですわね……)
 ときどき少量の毒を用いる。それは快い夢をみさせてくれるからである。そしてついには多量の毒に進み、快き死に至る。
(毒!? 身体に悪いってわかっててもやめられないってやつかしら。死に至るって怖いけど……)
 かれらもやはり働く。というのは働くことは慰みになるからだ。しかしその慰みが身をそこねることがないように気をつける。
(ワーカホリックですわね……IT屋さんに多そう。健康には気をつけてほしいですけど……)
 彼らはもう貧しくなることも、富むこともない。両者ともに煩わしすぎるのだ。もう誰も統治しようとしない。服従しようとしない。両者ともに煩わしすぎるのだ。
(総て中流というやつでしょうか。それとも、とっても怠惰な方とか……?)
 牧人は存在しない、存在するのはただ一つの畜群である。すべての者は平等を欲し、平等である。そう思うことのできない者は、志願して気ちがい病院にはいる。
(全体が1つの飼いならされたグループになるということだな。そして全てが平等だと思っていると……)
「むかしは、世界をあげて狂っていた」ーーそう洗練された人士は言って、まばたきする。
(ネット時代の前は世界が狂っていた、とでも言いたいのか。それとも、世界中で戦争をしていた時代のことか……?)
 かれらはみな怜悧(れいり)であり、世界に起こったいっさいのことについて知識をもっている。だからかれらはたえず嘲笑(ちょうしょう)の種を見つける。かれらも争いはする。しかしすぐに和解するーーそうしなければ胃をそこなうからだ。
(嘲笑の種……ネットではとても良くみられますわ。怜悧な笑いも……。そして、よく争ってますわよね。すぐに和解はあまり見受けられませんけれども……)
「ふえー、たしかに、ところどころで『あ、もしかして?』ってなる部分がありますねえ」
「そうだな。時代時代でさまざまな読まれ方をされる文章なのだろうが、今、これを読むとまさに現代のことを書いているような気がしてくるな」
「わたくし、最初ににでてきた『まばたきする。』って、もしかしてマウスのクリックのことかしらって思って、ちょっと心がざわついてしまいました。ニーチェさん、未来がみえてたのかしら、って」
「わからんぞ、マウスどころか、VRメガネをかけた人がまばたきをしてクリックの代わりをしている、そんな未来世界をみていたのかもしれない」
「えー、そんなことできちゃうんですか?」
「まだあまり一般的ではないが、そろそろそういうデバイスが出てきているようだよ」
「ふえええ、ほんとに未来見えちゃってたんですかねえ」
「われわれは幸福を発明した」


ーーそう末人たちは言う。そしてまばたきする。ーー

現代の末人たちよ。

いかがだったかな?

君たちの心のニーチェの声は響いているだろうか。

もちろん、こうした解釈は彼女たちの妄想にすぎないのかもしれない。しかし、この時代にも十分通用する『言葉』であることは確かなのだ。

<つづく>

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