(If I Could) Change The World

エピソードの総文字数=3,894文字

 数時間も経つと三隻の船は当然として、目路の限り、海と空以外のものはすべてなくなった。捕鯨ボートはどうやら風に大きく流されているらしいが、どの方角に向かっているのか見当もつかなかった。陸地に向かっているのか、沖へと流されているのかもわからない。しかしどのみち櫂がないためにボートを操ることはできなかった。
 流刑に処されてから生き延びる術を考え続けていたが、世界の果てまで続いているような青白い海と空の前では一人の人間はあまりにも無力だった。今や世界は慈愛を失い、残酷な顔だけをこちらに向けていた。食料を確保しようにも、魚を釣るための竿すらなかった。醤油の入った一升瓶だけがあったが、醤油を飲むのも、海水も飲むのも、栄養としては変わらないように思えた。
 外套すら奪われたために凍えは止まらなかったが、太陽が沈んでからが本物の地獄だった。太陽の運行による気温の変化は陸上よりも海上の方が小さいことをここ三ヶ月の経験で知っていたが、それでも海の夜は皮膚が引き裂けるかと思うほど寒かった。俺は胎児のように身体を丸め、ボートの底に横たわりながら、仏教の地獄には八寒地獄というものがあることを思い出していた。同時に地獄とは死後の世界ではなく、現世のど真ん中にあることを知った。夜になり、風向きが変わったことは感じ取っていたが、あたりは暗闇に塗り固め、自分の手のひらも見ることができない有様だった。どうやら月は厚い雲に覆われているらしい。身体を起こして周りを見回しても、港町や灯台の明かりは見えなかった。その日、俺は疲れ果てていたためにいつの間にか眠りについていた。
 胃や足が引き攣りを起こした痛みで俺は目を覚ました。太陽が天頂近くまで上っていた。感覚で判断するしかなかったが、半日以上は眠っていないようだった。身体の凍えは未だに治まっていなかったが、それ以上に極めて貪欲な空腹を感じた。極寒に放置されている肉体の消耗は激しいらしく、身体の部位が引き攣りを起こしているのも栄養失調によるもののようだ。しかし食料を手に入れる算段もなく、喉の渇きを癒そうにも、ラハブ号の船長から決して海水は飲んではいけないと教えられていたために、打つ手はなかった。そもそも全身に拘束具が課せられたような疲労のためにボートの底から起き上がることができなかった。再び恐ろしい夜が訪れたが、内臓があまりにも頻繁に引き攣りを起こすために眠りにつくことすらできなかった。この夜も空は厚い雲に覆われているのか、仰向きになっても月も星も見えなかった。けれどもとっくに自分の感覚がおかしくなっていて、うつ伏せになっているのかもしれなかった。ともかく俺はこの寒さと飢えと暗闇の夜を耐え忍ばなければならなかった。しかし正直なところを言えば、何をもってすれば、この夜に打ち勝つことになるのかわからなかった。仮に生き延びることが夜に対する勝利だとしても、すでに人の温かさも眠気を誘うだけの食事も遠くを見渡すだけの光も失った俺を生きている、ということはできるのだろうか? 俺をすでに死んだ人間だと見做しても、世界中の人間はそのことで鬱屈することはないし、何よりも俺自身が気がかりに思わない。それほどまでに状況は切迫し、絶望的だった。
 もう一度太陽が上ったとき、俺はそのことを自分の幻覚か運命を司る存在の悪戯かと思った。そして遠くから汽笛の音が聞こえてきたときも同様だった。いつの間にかラハブ号よりは小型の船舶がこちらに近づいてきていた。俺はそのとき自分が生きているとは思っていなかったので、船から一隻のボートが向かってきて、こちらに大声を上げ始めたときにも、何の返事もしなかった。何人かの男たちがこちらのボートに飛び乗ってきて、俺の頬を叩いた。大声で呼びかけられていたが、俺はもはやその言葉を解するだけの気力もなかった。そのため受け答えをする代わりに一人の男の肩を撫でた。そのことで俺が生きていると判断されたらしく、毛皮のコートに包まれると、もう一方のボートに運び出された。そして船まで戻ると、男たちは縄梯子をするすると上っていったが、俺にはその体力も残っていなかったために、四本のロープを身体に巻き付けられ、甲板に引っ張り上げられた。男たちに抱えられる形で船室まで運ばれ、ベッドに寝かされ、呼吸が苦しくなるほどの毛布を身体の上に詰まれた。そのあと、薄い塩味のするスープと固くぼそぼそとしたパンを口にねじ込まれた。無理やり食料を詰め込まれたあたりで、俺の意識は途切れた。
 次に目を覚ましたとき、自分が生きている事実に驚くことができるほど体力も気力も回復していた。しかし生き延びたことを感謝するべきか呪うべきか、戸惑いを覚えた、というのが正直なところだった。目覚めた場所は自分が寝ているベットと工具らしいものが雑多に乗せられている書斎机があるだけの小さな部屋だった。一人の男が部屋の隅で胡坐を掻いてうとうととしていたが、俺が目覚めていることに気がつくと、こちらに何も言わず部屋から飛び出していった。あの男は見張り役だったらしく、すぐに別の二人の男が部屋に入ってきた。二人の男は同じ人間とは思えないほど巨体だった。ラハブ号に乗っていたオランダ人も身体が大きかったが、目の前の男たちはそれ以上だった。
「What tongue do you have?」
「あ……俺は日本人です。だから日本語が母国語です。あと英語も話せます。オランダ語も少しなら」
「良かった。英語が通じるのか。東洋人の顔立ちだから、言葉が通じなかったらどうしようかと思ったよ。この船は漁船で、俺はその船長だ。こっちの男が船医だ」
「どうやら命を助けていただいたようですね。ありがとうございます。どのようにお礼をしたら良いか……。察していただいていると思いますが、俺は今、無一文なもので」
「お礼なんざいらないさ。漁に出かけたら、たまたま一匹多く魚が取れちまっただけの話だ。それよりもなにゆえ一人で漂流していたのかを聞きたい。艤装すらしていなかったようだが。食料も見当たらなかった。何かお礼がしたいというのなら、お前さんの冒険譚を聞かせてくれ。どんな不運にめぐり合ったらあんな状況に陥るんだ?」
 俺は快く自分の身の上を話すことにした。絹織物を輸出するためにオランダの貿易船に乗り込んだこと。その道中でイギリスの海賊船に襲撃を受けたこと。そのあと捕鯨用のボートに一人だけ乗せられ、大海原に流されたこと。阿片の密輸を行う予定だったことは必要がないと判断して話さなかった。それに日本の友人たちから集めた金も略奪されたことで、もうこの計画もご破算になったのだ。
 俺が日本から遥々、大西洋のどこかまでたどり着いた旅路を聞くと、船長は満足したらしく、船医の男にあとは任せる、と言って部屋から出て行った。それまで黙りつづけていた船医が書斎机に乗っている工具を手に取ってようやく口を開いた。
「診察させていただきます。実はあなたが気絶しているあいだに身体を調べさせていただきましたが、念のためにもう一度」
 ここは医務室で、工具だと思っていたものは医療用具だったらしく、金属製のへらを口に突っ込まれ、喉の奥を見られた。触診も行われ、胃のあたりを触られるとまだ痛んだ。
「やはり寒気と栄養失調のために瘧を起こしていただけのようですね。良かったです。実はですね、天然痘かコレラに感染していたら海に投げ捨てろと船長に厳命されていたのですよ」
「それはぞっとしませんね。ところでこの船はどこに向かっているんです?」
「レイキャビクです。漁はすでに終えていて、この船は帰路についているのですよ。大漁をみなで祝っているところで、船員の一人がボートで漂流しているあなたを見つけたわけです」
「レイキャビク? それはどこの国の港ですか?」
「アイスランドです。この船の乗組員は全員アイスランド人ですよ」
 漁船がレイキャビクに戻るまで、それから一日もかからなかった。そのあいだ、俺はずっと医務室のベッドで横になっており、もう一度食事をいただいた。食事はライ麦のパン、レンズ豆やインゲン豆を煮込んだスープ、それとアンモニアの臭いがする白身魚だった。俺は食事を運んできた男にこの魚の料理は何かと聞いた。それはハーカトルという、食用の鮫を塩漬けにしたものだそうだ。アイスランドの伝統的な食べ物で、保存が利くために漁獲に出るときには必ず船に積むとのことだ。俺は恐るおそる食べてみたが、味よりも強い臭気のために吐き気を覚えた。おそらく発酵食品であり、そのために独特のアンモニアの臭いがあった。その点では納豆と同じく、異文化の人間には受け付けられないものであり、俺はハーカトルを一口しか食べることができなかった。
 船医が医務室に入ってくると、レイキャビクに帰港した、と告げた。その手には何故か醤油の入った一升瓶が抱えられていた。俺はそのわけを聞いた。
「あなたが発見されたとき、このボトルを抱きしめる形で倒れていたのですよ。だから大切なものだと判断して、一緒に船に引き上げたんです。これはお返しします。下船はもう少しお待ちください。現在、レイキャビクであなたを受け入れてくれる病院を探しております。あなたの身体はまだまだ危うい状態です。一週間は入院しなければならないでしょう」
 船医から一升瓶が手渡された。奇妙な縁によって、この醤油はアイスランドまで俺についてきたのだ。俺がお礼を言うと、船医は部屋を出て行った。

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