オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第三十四章 ヨハネによる福音書十四章一節

エピソードの総文字数=4,082文字

『心を騒がせるな、神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。』ヨハネによる福音書十四章一節


 その夜の空気は冬の気配が息を吹き返し、身を刻まんばかりの冷たさが支配していた。川のジャケットを着ていても、凍える抱擁は解けなかった。霧のような雨が体に降りかかるたびに震えが走った、だがこれからすることに比べれば大したことではない。物理的な冷たさは銭湯にでも入ってしまえば消えていく。
 D羽公園は街灯も何もなかった。ただ遠くのビル街の明かりと住宅地の灯がかすかにこの一帯を照らしている。薄暗い中で生い茂る雑草が雨に濡れ、淡い人工の光を反射する。その一方でため池の水は暗闇をたたえていた。淡い光に照らされてかすかな波紋と風になびかれる水面。そして線路から聞こえるのは仕事終わりのサラリーマンと学校終わりの学生たちを運送している鋼鉄の蛇が絶え間なく行き来していた。
 肌を濡らす水滴が心地よかった。手で拭ってもすぐに濡れてしまうし、そもそもその手すらも濡れているのだから。だが冷たさを感じれば生きているという実感がわいてくる。ガキの頃に覚えたことは中々抜け切れない。
 公園の入り口を見ると一台の白いプリウスがゆっくりと入ってきた。車のヘッドランプの光を腕で遮ると、運転席の窓が開いて人影が見えた。
「琥珀、なんで傘も差していないの!?早く乗りなさい!」
「水も滴るいい女ってのを再現してみようと思ってな」
「そもそも男でしょうが!」
 助手席のドアを開けて滑りこみ、濡れたジャケットを脱いで後部座席に放り込んだ。顔を拭っていると膝に何かが放られた。見てみると白のハンカチで顔を上げるとコナーが苦笑を浮かべていた。
「それで顔と頭を拭くことね。あと暖房を入れておくから少なくとも寒くは感じない筈よ」
「ありがとう」
「ねえ、一体これからどうするつもりなの?」彼女はプリウスをバックさせてハンドルを切り、公園からゆっくりと車道に出た。顔と頭から雨水を大方取るとハンカチはすっかりぐしょぬれになった。車内の空気は徐々に暖かくなってきていた。顔を前に向けると今時のレンタカーらしくカーナビが着いてあり、画面だと地図上の上を赤い三角形が浮いていた。
「説明しにくい。ただなり切ると言えばいいのか、そう、ロールプレイだ」
「じゃあ私の役回りは?」
「コナー、君はただ俺の言うとおりに車を転がしてくれ。本当ならば俺がするべきなんだがただのペーパードライバーどころかぺーでパーなドライバーだからな、ロールプレイに夢中になりすぎて事故ったりしたら面倒だ」
「ようするに足になれってことでしょ?別にいいわよ、前からしていることだしね。あなたはあなたで頭を働かせて頂戴。それで最初はどこに?」
「夢奈の家の前で一度停めてくれ」
「良いわよ」
 コナーがハンドルを切りアクセルとブレーキを踏んだ。彼女の運転は安全運転だった。あまりほかの車や壁際に近すぎず遠すぎずの距離を保ちながら目立たないように慎重な車の転がし方だった。一度だけ探偵の講習所でそう習うのかと訊ねたことがある。彼女はその問いに額に皺を刻んで軽く睨みつけてきた。
 雨の中の春崎家は他の家と比べても大差なかった。ただ玄関の窓から光が見えた。誰か中に居るのだろう。
「それで?」
 コナーの問いに手を上げて黙らせた。車一台を長く停めるにしてはここの道路は狭すぎた。車一台半の幅しかなかった。だがトランクに荷物を載せるくらいの時間ならば問題なく停められるように思えた。そして改めて車無しで大型トランクを運ぶのは不可能だと思えた。
「進めてくれ」
「どこに行けばいいの?」
「そうだな、水辺があるかな。この近くに水辺があれば……」
「ちょっと待って」コナーがカーナビを操作してその画面がかわるがわる変わっていく、彼女はちらっとこちらを見た。カーナビの明かりが彼女の白い肌を照らした。
「この辺の水辺だとさっきのD羽公園にため池があるわね、それから東に二百M先にA瀬川ってのがあるみたい、それから北西にM荒川。後は……そうね、北北東に公園があるみたいよ。村福祉公園って名前でここにもため池があるみたいよ」
「……東から行こう、それから福祉公園に向かって反時計まわりに進むんだ」
「わかったわ」
 コナーがアクセルを踏んで車を転がし始めた。ワイパーが規則正しく動くたびにフロントガラスに流れる雨粒を拭い去っていく。昔、あるギャンブラーがその雨粒を指さしてこう言った。
『賭けようじゃないか、あと何秒で流れ落ちるかってね』奴は黄ばんだ歯を見せて笑った。賭け狂いはなんでもギャンブルのネタにする。
 俺は目を閉じた。心の中で初めて人を殺した人格を造り始めた。そいつは年がら年中圧力を受けていていつ爆発してもおかしくなかった。そうしないために自分よりも弱い人間を見つけては怒鳴り散らして喧嘩を売り渡っていた。だが本質は腰抜け、怖いがために先手を打って相手に殴りかかるのだ。そいつは相手を殺すつもりが無かった、だが相手は……そう、自分の思い描いたシナリオに沿わなかった。そいつは今までずっと服従してたのに刃向ったのだ。それは小さなものだったかもしれない。だがそれが起きるのは考えもしなかった。最初に感じたのは衝撃、それから恐怖と憤怒がごちゃ混ぜになった。
 そして、殺した。だがそうするつもりはなかった。『気づいたら』そうなっていた。殺しほど現実的なものは無い。殺すだけじゃない。その後に死体をどうすればいいのかと言う話がある。
 そいつにはそいつなりの被害者への愛着はあったはずだ。だが死んだ時に気が動転した。どんなサイコパスでも最初の殺しでは冷静さを保つことは出来ない。
 だから手身近なトランクに彼女を詰め込んだ。無理やり入れたか、あるいは四肢を折ってでも入れただろう。そうすれば死体は見られない。だが死体は数時間もすれば臭いだす。その匂いは独特で分厚い壁でも漂ってくるほどの激臭だ。そして一度嗅げばもはや忘れることは出来ない……
「着いたわよ、琥珀。起きなさいよ」コナーの声が暗闇で響いたかと思うと体が揺さぶられた。俺は眼を開けて辺りを見渡した。
「ああ、すまない……考え事だ」俺はコナーの返事を待たずにドアを開けて外に出た。顔に細かい雨粒が降り注いだ。A瀬川はかなり幅があり、おそらく向こう岸までは十五Mはあると見えた。両岸には道路が川の流れに沿う形で整備されており、さらに三階建てのビルが乱杭歯のように立ち並んでいる。
 俺はプリウスの後ろに回った。そして大型のトランクを取り出すそぶりをして川に向かい、それを投げ捨てようとした。だがそうするには錆びついているが腰まである柵が邪魔だった。そしてなによりその下はすぐに水面ではなくコンクリートの坂だ。
 なら死体を取り出すか?いや、俺の考えでは死体はもう二度と見たくない筈だ。だがトランクのままでは水面に行くまで派手な音を立てるし、ここでは人の目につく可能性が無きにしも非ずだった。怯えた奴はそれをする勇気はないはずだ。そしてトランクが着水しても沈まないことだってある。じゃあ何か重りを用意したか?それは無い。トランクに死体と一緒に入れるならば入れるだろうが、後々に入れるとは思えない。むしろ入れない。
 怯えているならばそうする。そうなるとこの水辺も他の水辺も除外だ。死体を捨てるにはよくても見つかってしまう恐れがあった。
 俺は踵を返して助手席に座った。
「水辺はいい。春崎の家を中心にあちこちを回ってくれないかな?」
「少しくらい説明してもいいんじゃない?」と、コナーは言った。俺は髪を梳いて水滴を落としてから唇を開いた。
「水辺ってのは昔から死体や物を隠すのに使われているんだ。だが同時に死体を水の中に捨てると腐敗ガスが死体の体内にたまって浮き上がってくることがある。それを防止するにはあらかじめ死体の表面を刻んでおくんだが……」
 奴ならはそうしない。怯えた獣は自らの後を消せない。
「それから、変態ってのはどういうわけか水辺を好むんだ。これは説明しようがないんだがとにかく、連中は水辺に惹かれる。月の引力で水が引かれるからかもしれないが」
「でもトランクに詰め込んだ死体は……考えたくもないけどもさ」彼女は眉をひそめて首を振った。そしてアクセルを踏んでハンドルを切るとプリウスはせき込みながら前に進み始めた。
 奴は焦っていたはずだ。そんなにぐるぐると死体を乗せた車でドライブなんてしたくなかっただろう。早く捨てて日常に帰りたかった。眼を背きつづけれる場所に戻りたかった。それが圧力の常にかかるものであったとしても。
「……それ、誰なの?」コナーの声に俺は驚いて顔を向けた。彼女はちらっと横目でこちらを見てまた運転に意識を向けた。
「さっき奴は焦っているとか言ってたじゃない、その奴って誰なの?」
「知恵を殺した奴だ、俺は今、自分の娘を殺した事実に向き合っているんだ」
「……あなたは義彦が知恵ちゃんを殺したと思っているわけね」
「……証明が終わってからにしよう。俺の証明が正しいかどうかでそれがわかるんだから」
「だからってどうするつもり?仮に見つかったとしてあなたの父親がお姉さんを殺しましたなんて伝えるの?それじゃあもう警察の役回りに近いわよ。それに私にはあなたがどうしてそう考えつけるのがいまいちわからないわ」コナーは言葉を切った。しばしの間、沈黙が流れた後、口を開いたのは俺だった。
「別にわかってもらおうとしているつもりはない、俺はただ推理して事実と照らし合わせようとしているだけだ。それは法廷で使うような証拠を集めるのとわけが違う。ただそれだけだ。何が起きたのか、まずそれが知りたいんだ」と、俺は言った。コナーは何も言い返さなかった。俺は続けた。
「今夜でわかる。全ては今夜だ」
 そして誰かがしなければならないことなのだ。あるいはそうさせられているのか。

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