オーバー・ザ・フェンス~十字架と罪過は誰が為

第十三章 詩編百九章二十一~二十三節

エピソードの総文字数=4,123文字

『主よ、わたしの神よ御名のために、わたしに計らい恵み深く、慈しみによってわたしを助けてください。わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。移ろい行く影のようにわたしは去ります。いなごのように払い落とされます。』詩編百九章二十一~二十三節

 
 目覚めて最初に感じたのは悪臭だった。口の中が歯垢と煙草の匂いがごちゃまぜになって空っぽの胃がひっくりかえりそうになる。バッテリーが上がりかけているスマホを見ると朝の十時を少し超えていた。
 身に着けていた物は全て洗濯機の中に放り込んで回すことにした。それから浴室でミント入りの歯磨き粉と洗口液を使って口の中を洗う傍ら、石鹸とリンスで体中を洗い流した。大概、匂いと言うのは馬鹿にならない要素だ。特に髪は匂いを吸収するようで汗や煙草の匂いが一度染み付くとなかなか取れない。もっともリンスを使うことでかなり軽減されるのもまた事実だ。悪臭を放てば遠くに居ても居場所が見つかる。そして記憶にも残りやすい。ケースバイケースだが匂わないというのは目立たないための必要条件だ。
 朝食で焼きたてのベーコンエッグとカリカリに焦したトーストを平らげ、エスプレッソを飲む傍ら、手身近の本棚から本を取り出して目を通した。それはアメリカに移住したある精神科医が日本に置ける虐待の一幕を著した本だ。適当に開いたところは読み慣れた個所だった。
『残念ながら日本において児童虐待の理解が広がっているとは思えない。司法、警察、一般の人々に至るまで子供たちに目は注がれていない。彼らは苦しんで悲鳴をあげても聞き入れられず、死んでからようやく重い腰が上がるのである。』
 その後に書かれているのはすぐに思い出せた。生きている間は無視され、死んでも隠される。だから虐待は無いという理論、そしてそれを馬鹿正直に信じた阿呆が我が国は児童虐待の件数が少ないのはなぜかと国際の学会に論文をぶち上げたという話。
 だが生き残っても同じだとはこの著者も知らないだろう、それを知っているのは無視され隠され、それでも生き延びた『秘密の子供たち』だけだ。

 再び横長の鋼鉄の檻に乗り、線路の上をひた走ること一時間以上、M越谷駅近くで路線沿いのD羽公園にたどり着いた。公園と言っても大層なものがあるわけでなく、申し訳程度に設けられた遊具や駐車場があるだけで、芝生の生い茂る野原といっても差し支え無さそうだった。空模様は雲交じりの青空だった。綿あめというよりも埃の塊のような雲が伸びては縮んで流れていくのが見えた。俺は着替えたと言え、服装はほとんど変わらなかった。言うなれば紺色のネクタイを締めることでより真面目そうな人柄に寄せているだけだった。風に乗ってこずとも電車が通るたび騒々しく響いた。
 その公園には池があった、スマホの地図を開くと公園の中心をほぼ占めているのがこの池であった。池を取り囲むように伸びている柵に寄り掛かって待つことにした。日差しはさほど強くなく、時々ふくそよ風が心地よい。池の真向かいにはおそらく水道管に繋がっているであろうコンクリートの入り口がひっそりと水を飲み込み続けていた。

 記憶のフィルムを巻き戻しては眺める、それを繰り返していると後ろで芝生を踏む音が聞こえた。視線をそちらに向けるとやせ細った男がこちらを見ていた。年のころは俺よりも若い二十代のはずだが、血色の悪い肌色は荒れており老けて見えた。マッシュルームヘアーは伸びて頭部だけがこんもりと膨れている。黒縁メガネの縁だけが目立っているせいで顔の特徴が捉えづらかった。服装はややデフォルト化された髑髏の描かれている黒Tシャツにジーンズというラフな格好だった。彼は俺を見て目を細めた、やあとでも言おうか思ったが思い直してただ、手すりに寄り掛かって池を眺めることにした。男は俺をじっと見ていたが踵を返して離れていった。スマホを見るとすでに昼の十二時を過ぎたところだった。
 それでも俺は待った。しばらくするとまた後ろで芝生を踏む音が聞こえた。
「あの、琥珀さん、かい?」控えめな声の主に振り返ると先ほどの男が所在なさげに手を挙げたまま俺を見ていた。
「というと、おたくは利人さんで?」
「ああ、よかった、海塚利人だよ。つってもこっちはあんたなのかどうかわからなくて」彼は苦笑を浮かべて近づいてきた。俺はただ右肩だけをすくめた。
「で、話っていうのは……」
「高校時代に付き合っていた人がいたね、春崎知恵。一年前に家出した彼女について話が聞きたい」知恵の名前を出した瞬間、彼の顔が一瞬曇ったが次の瞬間、口を開けて俺を見た。
「ちょっと待ってくれ、家出だって、彼女が?」
「ああ、とはいってもあまり彼女にいい思い出はなさそうに見えたが?」俺の言葉に彼は眉をひそめた。手すりを掴む手をじっと見た後、顔を向けた。
「なんといえばいいのかわからなくなったよ、いや、確かに、そう、知恵ちゃんとは付き合いはあったさ。でも家出をしたなんてとてもじゃないが……」
「信じられない?」
「まあ、そうだね」彼はため息をついた。
「初めから話してくれ、どうして彼女と知り合ったのか、そして最後に彼女を見たのはいつなのか」俺が促すと利人はつらそうに眉をひそめて口を真一文字に結んだ。そして口元を拭った。
「彼女に会ったのは高校に入って生徒会の役員になった時に初めて会ったんだ。といっても最初はただ雑談とか愚痴をしているだけで、まあ、その三年の春に付き合うことにしたんだ。それまで結構長くかかっちまったけど」
「二人は進んだ関係だったか?」
「いや、ちゅーとかは、したさ。だがそれ以上は」首を振る彼に俺はなるほどと相槌を打った。
「あんたからみて知恵はどういう女だった?」
「あいつは……変わった人だったよ。よく教会に行くとか言ってたしクリスマスに誘われてデートかと思ったらクリスマスミサだったとか。でもわりと元気だったな、元気すぎたかもしれない」
「妹の話だと自己主張をするような性格じゃないと聞いたが」
「ああ、そうそう。家とか学校では一歩引いているって言ってたな。ただ二人きりの時はそうする必要が無いって」
「彼女は家出する半年前から引きこもり始めているんだ。ひきこもりと家出について心当たりは?」
 利人は顔を抑えた。両手の間からうめき声が聞こえると顔をあげた。その表情は何とも言えぬ苦痛を抑えているようにも見えた。
「実を言うとなんといえばいいのかわからないんだ。俺の中でも、そう、どう解釈すればいいのかわからねえんだよ」
「というと?」俺が促すと彼は苦虫をかみつぶした。
「最初に来たのはラインだった。『もうあなたに会わせる顔が無い、ごめんなさい』って来たんだ。こっちから送っても既読がつかないし電話しても全く出なかったんだ。心配になって家まで行ったんだが会えなくて、それに時期的に就活とかぶっちまったんだ。だから結局どうなったのかわからなくて……なあ、本当に彼女は家出したのか?」
「ああ、少なくとも一年前には出て行ったようだ。そして依頼人は彼女を見つけ出してほしいんだ」
「その依頼人ってのは?」
「黙秘権を使わせてもらいたい、ただ一つ言えるのは、依頼人は知恵に会いたくて俺たちを頼ってきたとだけ」
「まあ、いいさ。正直、こっちとしても何があったのかは知りたいんだ。その、あの時なにがあったのかって」
「ラインを見せてもらえるか?本当に一言だけ送られて?」
「ああ、そうだな。見てもいいよ」彼はケースのついていない表面の画面が割れたスマホを取り出して俺にライン画面を見せた。確かに彼の言った通り、『もうあなたに会わせる顔が無い、ごめんなさい』という一文だけでそれから何の連絡がついていなかった。念のために会話をさかのぼってみたが特に関係があるようには思わなかった。年頃の子供たちが話すような他愛も無いことばかりだった。テスト、学校、生徒会、今度のデートの待ち合わせはどこか、エトセトラ。最終更新履歴は二年前の六月だった。
「なあ、琥珀さん。知恵を見つけられるんだよな?」彼はすがるように俺を見た。俺は肩をすくめた。
「正直に言って望み薄だ。一年前に出て行ってどこにいったのかが皆目わからない。取っ掛りが無いんだ。だからおたくを訪ねたわけだが……そういえば、これに見覚えは?」 
 俺はネグリジェの画像を出して利人に見せた。彼はそれをじっと見た後困惑し、俺と画像を見比べた。
「こいつは、なんだ。これに何の関係が?」
「それは知恵の部屋から見つかったネグリジェでな。衣装ケースの下に隠してあったんだ。てっきりおたくの気を引くために買ったのか、それともおたくからのプレゼントなのかと予想していたんだが」
「とんでもない。こんなの見たことないよ。しかも彼女がこんなのを?まるで悪い冗談だよ。こういっちゃあなんだがまるで安物のリフレなんかで見る衣装だ」
「となるとそこらへんで見たことがあると?」
「あ、いや、そのイメージがな。イメージが……」戸惑う彼に俺はただ肩をすくめた。
 俺はその後何も言わなかった。ただ頭の中で何かが引っかかっているように思えた。
「知恵は、彼女は引きこもりや家出をするように見えたか?」
「どうだろうな、でもひきこもりしようにも親にどやされてして追い出されそうな気もするんだよなあ。両親が厳しいってよく愚痴ってたし」
「じゃあ家出は?」
「それがよっぽど謎だよ。だって最後に顔を合わせた時、彼女変わりなかったんだよ。それがいきなりあのラインで連絡突かなくなっただろ?なんか、家出したって……信じられねえなあ」
 彼は腕を組んでうんうん呻いた。しかし俺はひっかかりが解けたのを感じた。つまり前提条件を変えるということだ。
 なぜ知恵は引きこもったのか、そして突如いなくなったのか。そしてその舞台となっているのはいまだにきな臭いあの家庭だ、そこを見れば、おそらく彼女を見つけ出すのは可能だ。
 そもそも本当に家出したのか、そこから見直さなければならない。

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