【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

3-02 キスみたい

エピソードの総文字数=4,802文字

 5階まで上昇するのに、さほど時間はかからなかった。

 だが篤志にはそのわずか数十秒の時間が、とてつもなく長いものに感じられた。威月が〈滞在〉し始めてから、茂はそれまでの人間の肉体では考えられないような力を手に入れている。その力の片鱗を、すでに篤志も垣間見ている。

 ――だが、それとこれとは話が別だ。

 茂がそうであったように、威月もまた力自慢のタイプとは見えない。実際、体格は篤志より劣っていた。その腕一本で自分の図体を吊り下げられているのだから、不安を感じるなと言うほうが無茶な話だ。実際、威月の腕はわずかに震えていた。

以前、女の子を抱いて飛んだことがありますが、やはり重さの違いは歴然ですね。

今はこの姿を保っているだけで消耗しますし……私も少々不安でした。

 5階に到達するなり、威月は力なく床に座り込んでしまった。

 巨大な翼は背中に吸い込まれるように消え、次に篤志を見上げたとき、その顔は威月ではなく茂のものに戻っていた。

あなたのそんな不安そうな顔、初めて見ますね。

妖怪を忌避する英司くんの気持ちが、少しはわかったんじゃないですか?

おまえこそ顔色悪いぞ。大丈夫なのか。
大丈夫――と言いたいところだが、少し難しいようです。

少し休ませて下さい。


果歩はその廊下の奥にいるはずです。行ってあげて下さい。

……。

 茂の指し示した廊下の奥に視線をやる。

 だが、篤志は即座に行動に移ることができなかった。

 茂の表情は笑みを形作っていたが、それが強がりであることは一目瞭然だ。息苦しそうだったし、声も少し震えていた。威月の姿をしているときに発せられていたあの強烈な妖気も、今はすっかりなりを潜めている。
へえ、果歩より私を優先してくれるんですか? 嬉しい限りですね。
そういう憎まれ口より先に、今にもくたばりそうな面をどうにかしやがれ。
 篤志は床に膝をついて茂の顔を覗き込んだ。
手厳しいな。
 茂の顔から作り笑いが消えた。

 続いて何かを言おうとしたようだったが、茂はその言葉を発することなく小さく咳き込んだ。

 単に息苦しいというだけでなく、痛みを堪えているようにも見える。

あなたに傍にいてもらっても特に意味はありません。果歩ちゃんのところへ行って下さい。私も適当に休んでから、英司くんを探しに行きますよ。

果歩ちゃんと合流したら一緒にいてくださいね。果歩ちゃんなら……私がどこにいるのか探せるかもしれない。

(果歩になら〈探せる〉……?)
 茂の言い方に何か引っかかるものを感じたが、篤志は小さく頷いてもう一度廊下の先へ目をやった。

 王牙の出現で新たに崩れた壁や天井を差し引けば――崩壊の程度は軽いものだった。すぐ目の前にナースステーションとプレートの貼りつけられたドアがあり、部屋の半分ほどの壁がガラス張りになっていた。室内には照明がつけっぱなしになっているが、人の気配はない。室内は殺風景なくらいに整頓されているが、本来のナースステーションとしての機能は残されていないようだった。設置された機材などをみると、むしろ診察室として使われているようにも見える。

 その部屋の先で廊下は2方向に分かれていたが、一方は土砂に潰されてしまっている。

 果歩がいる、と茂の言った廊下の奥にも、ぼんやりと照明の光が見える。

英司は無事なのか?
――私にも、何もかもが見通せるわけじゃありませんよ。

葉凪の結界の中を覗き見ることは私だけの力ではできません。でも結界の場所がどこなのかくらいはわかります。

おそらくそこに英司くんはいるはずです。

彼が無事でないのなら、結界もまた不要なはずだ。そうでしょう?

そうだな。

――英司のことは任せたぜ。
 そう言って、篤志は立ち上がった。
(相手が英司ではなく果歩なら、妖怪の結界に封じられていても〈見える〉、そして同じように果歩にもフクが……いや、威月が〈見える〉ってことか? ……英司と果歩では何が違う?)
 それを問いただすべきか、一瞬迷った。

 だが結局、何も言わずに歩き始める。ここにいるのは篤志の手の内を知り尽くした親友の〈フク〉ではあると同時にその身体や精神を妖怪に乗っ取られた存在なのだ。篤志がカマをかけたくらいでネタばらしをする程度の秘密なら、最初から懇切丁寧に説明してくれただろう。

■■■■■■■■■■■■■■■
 廊下を挟んで左右に5室ずつの病室が並んでいた。

 照明がついているのはナースステーションから数えて3つ目の右手の部屋だ。

果歩、いるのか?
 篤志はそう声をかけ、崩れた壁越しに室内を見渡した。
(こんなところに連れてこられたってことは、怪我でもしているのか?)

 室内にはマットレスがむき出しになったベッドが6床並べられている。〈入院患者〉の姿こそなかったが、清潔に保たれ、今も病室として使われているように見える。

 ベッドにも果歩の姿はなかったが、その部屋の一番奥のベッドと壁のあいだに、シーツがテントにように張られていた。

……果歩?
 崩れた壁をまたぎ越して、篤志は室内に踏み入った。

 警戒しつつそのシーツのテントへと近づいていく。中で何かが動くのがわかる。

 ベッドを挟んで見下ろす篤志の姿が、裸電球の灯でシーツに影を落とした。シーツがたわんでいるせいで、その形はまるで襲いかかる獣をかたどった影絵のようだ。

 影から逃げるように、またシーツの下で何かが動く。

俺だよ、篤志だ。

果歩、何やってんだこんなところで……。

 篤志はベッドのマットレスの上に土足のまま上がりこみ、壁とベッドのあいだの狭苦しい隙間へ足を下ろした。シーツの端を掴んで中を覗く。

 そのとき……。


だめ。入ってきちゃ……。
ああっ?!

手間かけさせんなよ。おい、出て来……。

 果歩の声にはお構いなしで篤志はシーツをめくり上げた。

 だがその下で膝を抱えてこんでうずくまっていた果歩が顔を上げた瞬間、篤志は言葉を失った。

 まるで死人のように白い顔。

 前髪がさらりと揺れて、あらわになった額に赤い印が浮き上がっていた。

 威月の額の文様と――同じものだった。

……。
 それが何を意味するのか、篤志にはわからなかった。

 だがさっき威月に対して抱いたのと同じ強烈な不快感がこみ上げてきて、1歩退いた。果歩の身体から、濃厚な花の匂いが立ち上ってくる。

 篤志は思考のすべてが麻痺していくのを感じた。

(あのとき……俺はこれを見たんだ)
 犬を拾ったあの夜。

 そして王牙の頬のが天空を焦がしたあのときも……。


 心臓の鼓動が、速度を増していく。篤志は自分の意識がその甘い匂いに急速に侵食されていくのを悟った。そしてあのときと同じように、自分の心臓の鼓動とは違うもうひとつの鼓動が、体の中で力強く脈を打ち始めるのを感じ取った。

 この悪しき存在を

 ジャングルに巣食う魔の生命を

 奪い尽くせ

 殺し尽くせ

 汝が王国の繁栄の為に

 汝が欲望のままに

 犯 し 尽 く せ


 その獰猛な狂気が、篤志の身体の中で渦巻き、鎌首をもたげてもがいている。
あのとき……。

俺が果歩を殺したあの夜に……。

 果歩の首を絞めた手のひらの感触が、鮮やかに蘇った。

 全身に電撃の走るような刺激。

 10年前にも篤志はその刺激の中で、果歩が息絶えていくのを見守っていた。

 果歩の怯えた表情が、今もすぐ間近にある。手を伸ばせばもう一度あの刺激を味わうことができるだろう。どんな柔らかなぬくもりより、なめらかな手触りよりも心地良かった、あの硬質でざらつく刺激を……。虎が獲物の肉に牙を立てる瞬間と同じ、果てしない飢えを満たす血の味を。

 あのときと同じように今も、篤志の意識を支配しているのは篤志ではなかった。もうひとつの獰猛な鼓動。その鼓動が、篤志を狂気へと駆り立てている。

これが俺自身の本性なのか。

俺に与えられた〈役目〉なのか……?

 身体を切り裂きかねない激しさで繰り返される鼓動を、抑える術などなかった。

 胸のうちに溢れかえる貪欲な衝動に抗えば、今度こそどん底の狂気に引きずり込まれてしまうだろう。決して満たされぬ飢えを抱えて煮えたぎる毒の沼に沈んでいく苦痛が、その狂気の向こうに待ち受けていることを、篤志は知っている

……。
 果歩の口からもれる、声にならない悲鳴。

 まだ湿り気を帯びた細い髪から、あの甘い匂いが立ち上ってくる。

 それを感じ取りながら、篤志の手は果歩の首を掴んでいた。ペパーミントグリーンの床と白い漆喰の壁に果歩の小さな体を押しつけて馬乗りになる。

 手のひらに果歩の脈動を感じた。

 その脈動までが儚げであることに新鮮な驚きがある。

 泣いて震えるように……伝わってくる生命の手応え。

 

(果歩を守ってやれるのは、俺しかいない)
(俺だけが……果歩を守ってやれる)
(俺が倒れればもう果歩は……)
 何かが、懸命に凶暴な鼓動に抗い続けている。

 果歩の首筋から伝わる脈動と同調して、何かが篤志の心臓へと新たな血を注ぎ込み続けていた。果歩を守れと命じ続けている。

………………。
 押さえ込まれて身動きももままならないまま、果歩はその光景を見上げていた。篤志の顔をまだらな闇に染めて、凶暴な虎の魔物へと変えていく〈誰かの〉意思の存在を、今は明確に感じ取ることができる。

 10年前にはわからなかった。

 あのときはただ――篤志の狂気に怯えていただけだった。

(あっちゃんじゃ、なかったんだ。あっちゃんじゃなく、虎が……)
 その答えを得ることが、自分自身の存在の意味なのだと果歩には思えた。

 そしてあの夜と同じように……薄暗くぼやけていく視界に、もうひとつの赤く染まった視界が重なって明度を増していくのを感じた。その赤い視界に、鮮やかな色彩に縁取られて遠いジャングルの光景が映し出されるのを、からっぽの意識で眺めている。赤い青、赤い緑、赤い黄色が、渦巻く洪水のように押し寄せて果歩を溺れさせ、沈めていく。

(あのジャングルで……もう一度死ぬんだ
 それが怖いのでは、なかった。
あっちゃん……。
 果歩のくちびるが、そう切れ切れの言葉を形作った。

 この空っぽの意識が、くちづけのようだと果歩には思えた。ジャングルに女を残して逃げていくとき、王子が約束の言葉とともに残していった熱いくちづけは、きっとこの溺れて沈んでいく空っぽの意識と同じように彼女を激しく揺さぶっていたに違いない。

きっともどってくる。

おまえが私の子を産むより前に……。

虎を仕留めてもどってくる。

 果たされるはずのない約束をなぜ残したのかわからぬままに。

 果たされるはずのない約束をなぜ信じたのかわからぬままに。


 ふたりのあいだで交わされた、ただひとつの真実だったあのくちづけと……。

ひとりでいくのは……こ・わ・い。
……。
 果歩の目にじっと見つめられて、篤志は息を飲んだ。

 手のひらで脈打つ心地よいなめらかなぬくもりを感じ取りながら、篤志は自分こそが首を絞められて呼吸をはばまれているような苦しさにもがいていた。

 必ず守ると誓った。

 誰にも渡したくないと思った気持ちは今も変わらない。

 そして何があっても……自らの手でこの異質な生命を破壊し尽くすことを運命づけられて篤志は育った。

 そのどれを選ぶべきなのか。

 自分自身がどの選択肢を選ぶことを望んでいるのか。

 篤志には判断がつかなかった。


 いや……選ぶまでもなくすべては同じひとつの結末に結びついているようにさえ感じられる。

 篤志にとって選ぶことのできる未来はそのたったひとつだけなのだ。 

大丈夫だ、果歩。
 篤志はそっと果歩に耳打ちした。

 片手で事足りてしまうほど華奢で頼りない果歩の首筋の手応えを、今度こそ忘れまいと胸に刻む。

もう二度と虎を目覚めさせることのない、永遠の沈黙の砂に埋もれたジャングルで……もう一度……。

ひとりじゃない。俺が一緒に行ってやる。

だから……。

もう一度、死ぬんだ……。
だからもう……泣くなよ、果歩。

◆作者をワンクリックで応援!

3人が応援しました。

◆コメント欄は未記入でもOK! 公開されないのでお気軽に。

ページトップへ