頭狂ファナティックス

じゃれ合い①

エピソードの総文字数=3,380文字

 綴は銀太と紅月を甘やかすことが趣味であり、紅月とは同居生活の中で、家事や炊事を分担しながら本当の家族のように接していたが、夕食の後の気怠い時間や風呂が沸くのを待っている暇な時間にはよく妹分を抱きしめた。体格の勝る綴は後ろから紅月を抱きしめて、相手の頭の上に顎を乗せながら紅月の女の子にしては筋肉質な鎖骨のあたりを撫でたり、硬質で跳ね返りの強い髪の毛の中に顔を埋めて匂いを嗅いだりした。綴のスキンシップはいつも唐突で、紅月が理論物理学の専門書を読んでいるときや、左のこめかみから垂れ下がる三つ編みを解いているときなど、相手の事情を鑑みないものだったが、紅月も普段の強気で粗野な態度とは裏腹に綴にだけは甘えたところを見せたために、綴が抱きついてきたおりにはそのときにしていたことを放って、後頭部を姉貴分の胸に預けた。
 銀太や紅月に限らず、友人やクラスメートなど人間関係において、例外なく綴は他人に甘かったが、そもそも自分に対して甘かった。大室家の長子として生まれて、不和もない穏便な家庭で育ち、弟も反抗的ではなく、荒む理由がなかっために両親から「暢気な娘」と評されていたが、特に匡正されることもなく十七歳になった。アッパーミドルの家庭でお蚕包みで成長したために、子供が最も敏感である不平等に対して些か鈍感なところがあり、またそれゆえに現在の自他共に甘い性格が形成されていた。本人の立場として不平を言うことがあるとすれば、光文学園に来て以来、交友関係の中で最年長であったために(綴は二年生だが、三年生の知人はいなかった)、綴自身には甘える相手がいないことであった。
 ところで紅月は綴と対照的にストイックな性格をしていた。自分にも他人にも多くを求める傾向があり、ときには大室姉弟を辟易させることもあった。それが不仲な両親との関係の中で作られたものかは誰にもわからなかったが。決定的な対立が起こりそうなとき、必ず綴は日和見た意見を挙げた。それは誰も傷つかないが、根本的には問題の解決しない意見ばかりであり、ほとんどの場合、銀太や紅月はその意見を綴が言うよりも前にわかっており、綴が口を開くよりも前に二人は反駁の準備をした。紅月だけでなく、姉よりも幼馴染に影響を受けがちな銀太も綴の日和見に反対することが間々あり、温厚な性格のために二人から姉として尊敬はされていたが、頼りにはされていなかった。ときには綴の方が未熟な態度を取り、年下であるかのように、二人に窘められることさえあった。
紅月ちゃん~、ぐりぐり~。
 紅月が寝る準備の一環で髪を梳かしていると、綴は相手のベッドに上って、妹分を後ろから抱きしめた。紅月は使い古して煤けた青い生地のパジャマを着ていた。青い生地に黄色い星の模様が散っている。一方、綴は新調したばかりの白いネグリジェを着ている。長髪の先の方をシュシュで縛り、大きな房を右肩から身体の前に回している。紅月の首に腕を回すと、綴は相手のつむじに鼻を押し当てて匂いを嗅いだ。せっかく梳かした髪が乱れてしまうのも気にせずに、紅月は首に回された腕を優しく掴み返して、綴の抱擁に答えた。
かわいいなー、かわいいなー、妹はかわいいなー。可愛い女の子って、何でこんなに可愛いんだろう?
 奇妙な節回しを付けながら、綴は猫なで声を出し、身体を前後に揺らした。紅月もされるがままに前後に揺れる。顔つきはむっつりとして不機嫌にも見えたが、それは甘やかされている今の自分の姿を素直に喜ぶことに恥ずかしさがあったからだった。
お風呂上りの匂いがする。紅月ちゃんは意外と身支度に気を遣うよね。普段もちょびっと香水を付けてるし。あまり匂いが強くないシプレー系。
せかせか動くからな。汗っかきなんだよ。それに香水をつけ始めたきっかけは綴ねえだぜ? まだ実家にいたころ、今みたいに抱きしめたときに『ちょっと汗臭いね』って言ったことがあっただろ? 俺はその言葉を今でも気にしているんだぜ。
そうだっけ? 覚えてないや。でも紅月ちゃんの匂いだったら汗臭くても好きかな。紅月ちゃんみたいなお転婆な子は自分の臭いまで気が回らないことが多いけどね。銀太くんとか全然身なりを気にしないよ。紅月ちゃんに比べたらってことだけど。そこらへんはやっぱり乙女ってことかな。
違うな。確かに俺は自分が男であるかのように振る舞っている。しかし乙女だからでなく、自分が男のつもりだからこそ見映えを気にするんだ。男っていうものは、いつでも自分が可愛い女の子に変身することを望んでいる。しかも俺は外見に関していえば、本当に美少女ときている。これはもう美少女である自分を全面的に押し出していくしかないじゃないか。
そうなの? よくわかんない。でもお姉ちゃんも紅月ちゃんが可愛いと嬉しいな~。
 綴は腕を紅月の首から下して、胸で交差させると、ますます強く抱きしめて自分に引き寄せる。紅月も自分の肩に垂れかかってきた綴の髪を一房、手に握ると鼻に押し当てて匂いを嗅いだ。しばらくのあいだ、二人は抱き合いながら互いの匂いを嗅いでいた。
 ドアがノックされ、「銀太だよ」という声が聞こえた。こちらの返事も待たずに銀太が入ってくる気配を察した紅月は綴の抱擁から逃げ出そうとして、身を捩った。しかし綴は相手を離そうとしなかった。銀太が部屋の中に入ってきても綴は腕を解こうとせず、紅月は身体をじたばたさせていた。
何してるの?
 銀太は紅月のベッドの上でもがいている二人を見て、呆れたように言った。
いや、別に何でもない。ちょっとじゃれ合ってただけだ。
もう、逃げようとしないでよ~。もっとお姉ちゃんに甘えていいんだよ? 銀太くんが見ているところでも恥ずかしがらなくていいんだよ?
わかってんなら離せよ。
 小柄な身体だったが、力勝りする紅月は無理やり綴の腕から抜け出した。
ああ~、行かないで~。
 名残惜しそうにベッドから下りる紅月を見送ると、綴は不貞腐れて紅月の枕に抱きついた。紅月は綴と二人きりのときには甘えたが、銀太が見ているところでは決してそのような真似はしなかった。先日の綴が風呂に乱入してきたときもそうだったが、銀太から姉を奪う罪悪感というよりも、普段から男性的に振る舞っている自分の甘えている姿を人に見られたくないという羞恥心からだった。
何か用か?
 紅月は勝手に綴のベッドに腰かけている銀太の前に立ち、聞いた。銀太はベージュのセーターに紺色の擦り切れたジーンズという、質素であり、それゆえに性別の分からない服装をしていた。
前に借りていた小説を返しにきたんだ。それで何かおすすめのやつが新しく入っていたら、また貸してほしい。
 そう言った銀太の隣には持ってきた文庫本が三冊積み重なっていた。この部屋の装飾はほとんど綴だけに任されている。しかし本棚には骨格の木版が歪むのではないかと思うほどの本――上製本に文庫本、内容は小説、学術書、あらゆる言語の辞書など多種多様だった――が乱雑に詰め込まれており、その本はすべて紅月の持ち物だった。紅月は滅多なことでは特別科クラスの教室に出向かず、授業がある時間には本を読んで暇を潰すことが多かったために、必然的に浩瀚な蔵書を持つようになった。その反面、綴は教科書も含めて本を一冊も持っていなかった。その理由は、綴がまったく活字を読まないような知的な向上心のない人間だからではなく、そのコンプレックスに関係していた。
 本棚の前に立ち、本について話している二人を綴は紅月の枕から漂う残り香にうっとりとしながら眺めていた。二人は一冊の海外小説について衒学的な会話を続けていたが、綴はそこに混ざろうとしなかった。それは綴がその小説について知らなかったからではなく、むしろその小説については二人よりも熟知していた。さらに言えば、どのような本を持ち出されても――相手が特別科クラスの人間であろうと――その本について綴の知識が劣るということはまずないだろう。綴が銀太と紅月を二人だけで話すに任せていたのは、二人の幼い息子が連れ添っているのをその母親が見ているような、あるいは二匹の子犬がじゃれ合っているのをその飼い主が見ているような、慈愛からであり二人のあいだに自分が入れば、今の懇ろな空気が壊されてしまうだろうと考えていたからだった。

◆作者をワンクリックで応援!

0人が応援しました。

◆コメント欄は未記入でもOK! 公開されないのでお気軽に。

ページトップへ