(If I Could) Change The World

レイキャビク

エピソードの総文字数=3,651文字

 入院先の病院が見つかったと知らせを受けると、俺は毛皮の外套を身体に巻き付け、醤油の一升瓶を持って漁船を出た。外套は俺に譲り渡してくれるとのことだった。港には船医が待っていた。俺を病院まで案内するとのことだ。俺は漁船の甲板に出ていたアイスランド人たちに向かって、大声でお礼を言った。
 病院への道中、レイキャビクの街を見回した。しかし今は夜なのか、遠くまで見渡すことはできず、出歩いている人間もいなかった。等間隔で並んでいる水銀灯から青白色の光が溢れだし、あたりをうっすらと照らしていた。また星々の明かりが妙にはっきりとしていて、街は暗闇に包まれていると言うよりも紫色の繻子に覆われているようにぼやけていた。北緯の高い国の夜は星の光が強いために、このように明るいものなのだろうか?
「今は夜だったんですね。ベッドに寝たきりだと、どうも時間の感覚が狂っていけませんね」
「いえ、今は夕方ですよ。懐中時計を見ますか? この国の時間に合わせてあります」
 船医が内ポケットから懐中時計を取り出した。そのチェーンはベストの穴に通してあった。時計盤を見ると四時だった。
「北欧以外の国の人には馴染みがないかもしれませんね。極夜という現象で、冬のあいだ、レイキャビクでは一日に四時間ほどしか日照時間がありません。もっと北の方に行けば、まったく太陽が昇らなくなります」
「ああ、聞いたことはあります。一日中、真夜中が続くようだとか。しかし実際に体験するのは初めてですね。もっと北、ということはレイキャビクはアイスランドでも南の方にあるのですか?」
「そうですね。レイキャビクは島の南西部に位置します。この国では都市はほとんど海岸部にあります。島の中央部は木々も生えていない剥き出しの山があるだけで、人が住めないのですよ」
 病院までは十分ほどしかかからなかったが、弱っている今の俺はそれでも息切れを起こした。あたりが薄暗いために建物の細部までは見えなかったが、民家とさほど変わらない大きさで、個人経営の病院らしかった。
 医師とはすでに話がついており、病院に入ると俺は船医の肩を借りて奥へ進み、六つのベッドが二列に並んでいる病室へ通された。洋灯が吊るされており、部屋の隅々まで照らしているわけではなかったが、それでも、窓に黒炭で落書きされていたり、空の嗅ぎ煙草入れが落ちていたりしているのが見え、清潔な部屋とは言い難かった。部屋の一番奥の右手にあるベッドが俺の寝床だった。他のベッドはすべて埋まっており、顎髭を無精に生やしたり、酒瓶を呷っていたりする大柄の男たちがこちらを遠慮もなくじろじろと見つめてきた。船医が言うには、この病院は航海で負傷した人間を専門的に受け入れており、すなわちここにいる男たちは船乗りだった。新参者への洗礼か、東洋人が珍しいのか、あるいはその両方か、話しかけてはこなかったが、誰もが海の男らしい獰猛な目つきでねめつけてきた。ベッドに寝かされ、船医と別れる前に、俺はあの窓の落書きは何と書いてあるのか聞いた。アルファベットで書かれていたが、英語とは明らかに子音と母音の配置が異なった。おそらく現地の言葉だった。
「あれはアイスランド語です。冒涜的なことが書かれているので、意味は聞かない方がいいですよ。それでは、ここでお別れですね」
 俺が繰り返しお礼を言うなか、船医は病室から出て行った。同室の男たちはすでに俺に興味を失ったらしく、ペーパーバックを繙いたり、小声で会話を始めたりしていた。
 入院生活は退屈極まりなかった。自分の持ち物は醤油の一升瓶しかなく、それで洋書の一章節でも読めたらよいものの、当然、そのようなことは不可能だった。一日に数時間しか夜が明けないというもの非常に苦痛だった。アイスランドの人間ならば、この地で育ったのだから、当然の現象なのだろうが、日本で生まれ育った俺には昼と夜の配分がまったく違うというのは感覚の均衡を崩した。療養生活の中で確かに体力は回復していくのを感じていたが、精神の方はむしろふさぎ込んで、一日中ベッドに伏していることが多かった。
 同室の男たちはたびたび談笑に耽り、大男らしい快活な笑い声を上げたが、その言葉というのがまったくわからなかった。言葉の意味がわかれば、盗み聞きをして、その賑やかさのご相伴に与れたかもしれないが、男たちの話す言葉は英語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、いずれでもなく、日本で聞いたことのないものだった。アイスランド語だろう、と当て推量をつけてはいたが、だからと言ってその意味がわかるようになるものでもなかった。男たちは俺に言葉が通じるとは思っていないらしく、まったく話しかけてこなかった。こちらも、命を助けてもらった漁船の船長と船医には英語が通じたが、アイスランド人のほとんどが英語を話せるのかわからず、話しかけるのを躊躇ってしまった。それも相手が無骨な大男たちだったから、なおさら勇気が出なかった。医者も随分といい加減な男で、一日に二度、食事を持ってくるとき以外には顔も見せず、治療らしい治療もしてくれなかった。そのために医者とも話をする機会がなかった。その文化もまともに知らない異国の地で話し相手がいないということが、これほどまでに孤独なことだったとは知らなかった。
 入院して五日が経ったあたりから、俺の中で別の問題が頭をもたげてきた。身体の調子から言えば、一両日以内に退院できるのだが、入院費用をどうするべきか、ということだ。そもそも俺はこの国の通貨の単位すら知らなかった。仮に費用の支払いを延期してもらい、この街で働くと決めても、異邦人の自分を雇ってくれる場所があるのかわからなかった。さらにその先を考え、入院費用がどうにかなったとしても、日本に帰国するにはどうするべきか判断がつかない。東京にいたとき、レイキャビク行きの船舶というのは聞いたことがなく、日本とアイスランドを直接、通航する船が見つかるとも思えなかった。祖国までの道中、一度、日本と貿易を行っている国を経由しなければならないだろう。
 奇妙な運命に巻き込まれ、不本意にもアイスランドに渡ってから一週間が経ったとき、それまで憂鬱が続いた旅路でようやく前向きに物事が考えられるようになる出来事が起きた。そのきっかけは意外なところから現れた。俺は一日でも酒を飲まずにいると癇癪を起こす性質を持っており、レイキャビクに来てからはひどい望郷の念に襲われて発作は治まっていたものの、一週間も経つとついに我慢がならなくなった。病室にはいつでも酒瓶を手放さない男がおり、俺はその男に酒をわけてくれないかと頼んだ。同室の男たちは声には出さなかったものの、俺が英語を話し、さらにこちらから声をかけたことに呆気に取られていた。酒瓶を持っている男もしばらく呆然としていたが、ようやく口を開いた。
「この酒は度数が35度ほどあるぞ。それでもいいなら飲んでもいいが……」
「それくらいなら大丈夫です。一口いただきます」
 俺は男から酒瓶を受け取ると、酒を一気に呷った。喉の奥を焼けつくような痛みが貫いた。そのあと、舌の上には微かな甘みが残った。安酒だったが、久しぶりに飲む酒は上質なワインにも劣らなかった。言葉の通り、呷ったのは一口だったが、酒瓶の中身をほとんど飲み干してしまった。
「おいおいお前さん、そんなに飲んで大丈夫か? この酒はビールのような水じゃないんだぜ」
「俺は日本人ですが、珍しく酒に強いんです。それこそロシア人ほどにね。これは何と言う酒ですか? 透明な液体だ。ウィスキーやブランデーとは違う」
「ブレニヴィーンというアイスランド特有の酒だ。ジャガイモから作られる」
 俺は酔いが回って陽気になると、これまでのベッドで孤独に過ごした入院生活の鬱憤を晴らすように、不運な旅路の経緯を喚き散らした。酒癖の悪さにより祖国で一等の大学を中退したところから始まり、ろくでなしばかりと出会ったラハブ号の船路、海賊船の襲撃、そしてレイキャビクに辿りつくまでの漂流。俺がエイブラハム・リンカーンの演説の癖の真似をしながら、自分の身の上を語っているあいだ、男たちは野太い声で囃し立ててくれた。そして病室が騒ぎになったあまり、医者が乗り込んできて、「就寝時間だから大人しく寝ろ!」と怒鳴り散らす有様だった。医者の乱入によって場が白け、仕方なく寝ることにするかという話になったが、俺はベッドに潜り込む前に一人の男に窓の落書きは何と書いてあるのか聞いた。その文字はやはりアイスランド語で「Kristurr hangir á inum krossi tvisvar」と書かれており、意味は「キリストはもう一度、十字架に張りつけられる」だそうだ。俺は船医がこの言葉を冒涜的だと言った真意を掴みかねたが、すでに酔いが回っていたこともあり、そのことに頭を使うことも止めて、眠りについた。

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