【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

2-09 水の狐

エピソードの総文字数=3,168文字

見境なくサカるんじゃねえよ。――ガキを離せ。
 篤志の本気の怒号に気圧されて、英司はもちろん、果歩までも後ずさった。

 頭の怪我から流れ出た血と寝不足も手伝ってその表情の険しさは普段の比じゃなかった。その上鉄パイプを握り締めているのだ。……怖くないわけがない。

 英司にしがみついてその背中に隠れ、果歩には言葉も出なかった。

待てって! 勘違いすんなよ、俺は……。
勘違いだぁ?!
 苛立ちが頂点に達していた。

 ワケの分からないことに巻きこまれ、出るに出られず待ちの態勢。煙草は切れたし腹は減ったし怪我は痛む、おまけに睡眠不足の四重奏。今日は現場に出る約束だったのに無断欠勤となれば親方にどやされるのだって必至だ。その上自分が寝ったのを見計らったかのように金髪の小僧が中学生の小娘相手ににセクハラ行為――とくれば、短気な篤志でなくたって苛立ちを爆発させたくなる。

 半ばヤツ当たりではあるけれど……。

怒鳴るなよ、果歩が怖がってんだろっ!
 そして苛立ちは……伝播する。

 英司のほうもそう怒鳴り返し、ついでに足元の石ころを篤志のほうへ蹴り飛ばした。

 普段ならこんなコワモテに突っかかるような無謀な真似は絶対にしない。が、果歩に近付くたびにいちいち変質者のように扱われるのもそろそろ我慢の限界だった。危ないヤツという意味なら、おまえのほうがよほどランクが上だろうと言ってやりたくて堪らない。

英司……。
 か細い声で果歩が言った。

 怒鳴りあっているふたりはまるっきり気づいていないようだった。だが……果歩は確かに床を何かが這っていく音を聞いたのだ。

なんか……いるよ、英司ぃ。
 英司のシャツを掴んでいた果歩の手に、ぎゅっと力が籠もった。

 水の中に手を突っ込んでかきまわすような音が無気味に響くのを、今度は篤志も英司もはっきりと聞いた。

来やがったのか?
……多分ね。
 生唾を飲み下して、英司は周囲を見まわした。

 濃密な気配を感じるのに、その姿を見つけ出すことができない。気配は霧の様にまとわりついてこちらの出方を伺っているようでもあった。水音は、まだ続いている。

(くそっ……どんな敵が出てくるっていうんだ)
 自分が火を操るように、植物や水、雷を操る妖怪がこのゲームにエントリーしているのだと茂は言っていた。ずっと続いているこの水音がその敵の発しているものだとすれば、水を操る妖怪のコマ……ということだろうか。
おまえ、手ぶらじゃねえか。
 ソファを乗り越えて歩み寄ってきた篤志が英司に目をやって、毒づいた。
お、俺は果歩を探しに来ただけで、こんな事態は想定外っていうか……。
ふざけんなよ。がっつり想定内だろうが!

……ったく、何のために山ほどの鉄パイプ抱えてきやがったんだ。

 そう言われては返す言葉もなかった。

 やっぱりあの時、鉄パイプを取りに戻るんだったと後悔しながら、とりあえず英司は足元に落ちている拳くらいの大きさのコンクリート片を拾い上げた。果歩を背中にかばういつつ、じりじりと壁際に下がっていく。
どんなヤツが来てるんだ。……何も見えねぇぞ。
知るもんか。俺に聞けばなんでも分かると思わないでくれよ。
おまえパソコンマニアでこういうことに詳しいんじゃなかったのか!
 篤志はそう怒鳴って振りかえった。

 自分があからさまに盾にされているのだと気づいたのはその時だった。

なんでおまえまで俺の後ろに隠れてやがんだよっ。
え……いやその……。
 その怒号に、英司も(多少自覚があったのか)気まずい表情を浮かべる。

 別に篤志だって、見るからにひ弱そうな英司が戦力に数えられると思ったわけじゃない。だがせめてもうちょっと、スマートなやり方ってものがあるだろう。

 こういう状況では、せめて、

『俺も一緒に戦うぜ』

 ……という雰囲気だけでも作っていて欲しい。

 それでも果歩を背中にかばっているだけマシなのかもしれないが……。

英司……壁、濡れてる。
 じりじりと後退りする英司の背中と壁とのあいだに、もはやぎゅうぎゅうと挟まれながら、果歩は苦しそうに言った。虎の絵が掲げられた壁を伝って、細い糸のように流れ落ちてくる水が、果歩の服や髪を濡らしていた。
え……壁?
 英司が振りかえった。

 枝分かれしていた細い水の流れが次第にその水量を増し、壁全体を覆う膜のように広がって行く。

水……ただの水か?
 恐る恐る英司がその水に手を伸ばした。

 そして英司の指が触れた瞬間、水は部屋全体が真っ白に照らし出されるほどの光を放って弾けるように床に散った。

 土ぼこりとコンクリート片と割れたガラスで覆い尽くされた床の上を、水は丸く膨らみながら転がっていく。

馬鹿野郎! 何しやがった、おまえ!
触っただけだっ。コイツが〈敵なんだよっ!
 どこまでも物分りの悪い篤志に、英司が怒鳴り返す。恐怖で、英司の声は裏返っていた。

 水で形作られた球は、その英司と篤志のちょうど真ん中で止まった。

 眩しいほどの光を放つ水のかたまりの中でごぼごぼっと音を立てていくつものあぶくがわきあがる。そして揺れるように動きながら動物の形をかたどった。ピンと立った三角の耳、とがった口元。細い四つの足とふくらんだ9本の長い尾を持つその姿は、まるでガラスの彫刻のようだった。

 あぶくのように光る一対の目が、せわしなく動いて篤志と英司を見上げている。

……。
 さしもの篤志も、息を飲んで1歩あとずさった。

 茂が戯れに呼び出した火の人形なんかとは……まるで違う。その凶暴な目には、明確な殺意が込められているのだ。

この〈犬、殴れば死ぬか?
 鉄パイプを握る手が、汗で濡れていた。

 いつ飛びかからられてもいいように腰を落として身構えながら、篤志は一瞬、英司に視線を投げた。

はあああああっ?! どこ見りゃ犬だよ、狐だろっ!
んーなこと聞いてんじゃねえだろうが!
 その怒号に反応するかのように狐は篤志に視点を定めた。

 ばしゃっと水音を立てて床を蹴ると、狐は篤志めがけて食いついてくる。敏捷な動きだった。

 下あごに納まり切らないほどに発達した牙を、篤志はとっさに持っていた鉄パイプで受け止めた。だが、思いがけないほどの衝撃で床に突き倒される。

くそっ!
 仰向けに倒れた篤志の上に乗りあがって、水狐は鉄パイプにぎりぎりとその牙を突き立てた。なんとかその身体を弾き飛ばそうとするが、水狐に食いつかれた鉄パイプはびくとも動かない。
篤志さんっ!
 その光景を目の当たりにして足がすくんだ。

 助けなければ……と、思う気持ちは英司にだってある。だがどうやってあんなものと戦えばいいのかなんて見当もつかなかった。英司が手にしている武器は、ちっぽけなコンクリートの破片ひとつきりなのだ。

当たっても恨むなよっ、篤志さん!
 そう叫ぶと英司は手に掴んでいたコンクリートの破片を握りなおし、振りかぶった。
ば……っ、馬鹿が! やめろ……!
 狐の透き通った身体ごしにセットポジションの英司を見上げ、篤志は背筋が凍るのを感じた。

 だが、どうにもならない。

 ゴ……ッ。

 鈍い音と同時に、視界が赤く濁った。

 英司の投げつけたコンクリート片は狐の身体を貫通し、篤志の額(ちょうど怪我をした当たりだ)を直撃して床に落ちた。

 水狐の身体は四散し、もとの水に戻って床に小さな水たまりを作った。

馬鹿野郎っ、殺す気かっ!
 茂が止血してくれた傷口がまたぱっくりと開き、血が流れ出していた。

 だがその時、腕を濡らしていた水がぬるっと身をよじるように動くのを感じて、篤志は振り上げかかった鉄パイプを取り落とした。

 全身に、鳥肌が立った。

 篤志の腕を蛇のように這った水が跳ねるように床に落ち、その水たまりとともに斜面を流れ落ちるように移動して行く。

 そしてその先に目をやった時、篤志は亡霊のように立ちすくむ一人の少年の姿を見た。

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