雨男 ~嘆きの谷と、祝福の~

【2】膏雨-Ⅲ 触れていても、途方もなく遠い

エピソードの総文字数=1,207文字

 風呂から出て、湯上りの肌に虹子はサッカー地の部屋着をまとった。すとんとしたひざ下丈のワンピースである。
 どうかしている。自分はどうかしていると、ため息をつく。こんな状態で、男を部屋に引き入れるなんて。だけど――こんな状態だからこそ、必要だったのではないか。たまっていた息を吐き終えて、自分にそう言い訳をした。
 バスタオルを頭に巻いてリビングに行くと、驟は行儀よく、ローテーブルの前に座ってぶ厚い本を読んでいた。
 ページは茶色く変色し、よれてふくらんでおり、ただでさえ5cm以上は優にある本の厚みがいっそう太って見える。布製のカバーがかけてあるが、破れたりほつれたりしていて、ぼろぼろである。
「何の本?」
 髪をバスタオルに挟んで水気を吸いとりながら、虹子はテーブルの反対側から本をのぞきこんだ。
「……聖書」
 ページをめくる指を止め、少し時間をためてから、驟は答えた。
「え?」
 まさか、宗教の人だった? 虹子はたじろいだ。
「俺、信者じゃないから」
 先回りして驟は言う。
「まあ、いろいろあって。これ一冊持ってたら、退屈しないからさ」
 これ以上、この会話を続けたくないというふうに、驟はばたんとページを閉じた。

   ***

 照明を消すと、雨音がいっそう耳につく。
「サ行。濁らない」
 暗闇に、紙飛行機でも放つみたいに、ぽつりと驟は言う。
 ふだんから、和室に低反発のマットレスを敷き、ベッドパットを重ねて虹子は寝ている。独り暮らしを始めたときは、くず男とつき合っていたから、サイズはセミダブルだ。2つ並べた枕の、大昔、くず男が使っていたほうに、いまは驟が頭をのせている。
「今日の雨の音」
 独り遊びのように、驟はまた紙飛行機を飛ばした。
 虹子の右側と、驟の左側。お互い体の側面をくっつけて仰向けで並んでいるのに、距離は途方もなく遠く感じる。
 男って、こんなに遠いものだっけ。
 忘れてしまったな、と虹子は思い、いや、忘れるほどのものはもともとなくて、自分は男のことなど、なにもわかっていなかったんじゃないかと思い直す。
 そもそも、男とか女とか、そんな大雑把(おおざっぱ)なくくりで人をわかろうとする発想に、無理があるのかもしれない。

 暗闇に、虹子も紙飛行機を投げてみる。
「ねえ、どうしてついてきたの。今日」
「人助け」
 見えない翼がメッセージをのせて返ってきた。でも、なにそれ人助けって。莫迦にされた気がして、皮肉めいた言い方になる。
「じゃあ、体が目当てじゃなかったんだね」
「そりゃそうでしょ」
「こんな顔だから、そそられないってことだ」
「それはない。関係ないよ」
「だってそれ、憐憫(れんびん)でしょう」
「れんびん?」
「かわいそうだから、あわれんでる」
「もう、どっちなんだよ虹子さんは」
 苛立(いらだ)ちをにじませて、驟は寝返りを打って背を向けた。

◆作者をワンクリックで応援!

0人が応援しました。

◆コメント欄は未記入でもOK! 公開されないのでお気軽に。

ページトップへ