ブラの名前

エピソードの総文字数=4,446文字

 「そうか。振り出しに戻るってわけね」
 再び合流しためる子は、気楽からの報告を受けてそう言った。
 やや残念そうな顔つきもしているが、意外と落ち込んでいる様子がなさそうなのが救いだった。
「いろいろ調べてくれてありがとうって、ねぎらいたいところだけど、ちょうど社長に呼ばれてるのよ。一緒に来てくれる?」
 める子は、言いながらすでにスタスタ歩き出している。
「社長さんにも、成果が出せなくて合わせる顔がないな」
 うなだれながら、気楽も後を追う。あれだけかけずり回って、犯人の目星どころか、事件はどんどん迷宮へと深みにはまっているのだ。
 そこでふと、気楽は自分でも嫌な想像をした。
 事件の鍵になっているのは聖書。そして、メンバーの中にキリスト教に詳しいものがいるわけではない。それはテストの結果が示している。
 よくよく考えて見れば、この会社の中に聖書やキリスト教に親しい人物がたった一人だけいるではないか。
 ヴィクトリー・ファッション社の社長である勝とし江、彼女は最初からクリスチャンを公言しており、なにより今回の騒動の元になった「み使いのブラ・ミカエル」の名付け親でもあるのだ。
 聖書やキリスト教のモチーフを取り込んでいる、張本人ということになる。
 まさか、勝社長自身が……、そんなことを考えて気楽は背中に寒いものを感じた。
 目的は何だ?
 自分の会社の製品を、自分で盗む意図は?
 もし、社長が犯人なら、なんのために聖書を置いたというのか?
 彼女の立場ならプロジェクトそのものを止めればいいだけではないか?
 それとも、社長の立場から何か部下であるめる子の失態をわざと起こさせて、叱責しようとでもいうのか?
 ……考えれば考えるほど、勝とし江が真犯人であっても不合理で理屈に合わないことばかりが生じている。
 だんだんと眉間に寄せたしわが深まりそうで、頭が重い。しかし、もし本当にそうなのだとしたら、とし江はどんな表情で自分を迎えるのだろう、と気楽は体がこわばるのを感じた。

「先生、本当にお疲れさまで、言葉もありません。心から感謝していますのよ」
 社長室に再び招かれた気楽への言葉は、意外にも丁寧で感謝に満ちたものだった。
 気楽としては、とし江が犯人像に何らかの関係があるのではないか、と疑っていた矢先のことなので、この表情を素直に信じていいものかどうか、戸惑いもある。
 しかし、とし江はそんな気楽の気持ちなど全く知らず、深々と頭を下げている。
「もう、何日もお調べいただいているみたいで、本当に申し訳ないこと」
 テーブルには、温かい紅茶が淹れてある。
 どうぞ、と勧められ、恐縮しながらいただく気楽であった。
「それで、安土さん。状況はどうなの?」
 ゆったりと、それでいて威厳のある声でとし江が尋ねると、
「試作品の再現は猛スピードで進めています。犯人探しも同時並行でやっていますが、こちらは難航中。警備員室の録画ビデオも確認したし、各メンバーへの聞き取りも実施しましたが、決め手なしです」
と、簡潔ながら的確に、める子が答えてゆく。
「そう……」
 それには、とし江も残念そうな表情を浮かべている。そして、
「先生は、どう思われまして?」
と気楽への意見を求めてきた。
「私も安土さんと共にメンバーの女性たちを観察したり話を聞いたりしましたが、いわゆる怨恨のような気持ちからミカエルを盗み出すようなことをする者はいそうにないと感じました。もちろん、他社のスパイ説もなさそうです。御社に嫌がらせや妨害行為をするには、もっとこれ以前に行う方法もたくさんあるし、そもそも、私はやっぱり聖書が気になります」
 正直に、ここまでのありのままを話す。しかし、そうなると聖書のことで一番話を聞きたいのはむしろ、とし江社長本人ということになる。
「勝社長は、現場をご覧になられましたか?」
「ええ。安土の報告を受けて、一応は。けれど、触ってはいけないものでしょう?じっくりと聖書を読んだりはしていないわ」
 そこで、気楽は改めて、ここに来て最初に撮った写真を、スマホから拡大して見せた。
「開かれていたページは、イザヤ44章8節から9節でした。ちょうど十字架のしおりがその箇所を示していました。『偶像を作る者はみな空しく彼らが慕うところのものは益なし』という言葉です」
「偶像、ねえ」
 そう呟いて、とし江は考え込む。
「わたしは、偶像崇拝などしているつもりはないのだけれど」
 める子は、そこで最初に感じた自分の見立てを口にする。
「あたしは、補正下着を偽りだと言いたいのかと感じたのですが、思いこみでしょうか?」
 あらまあ、という表情をして、とし江はぽかんと口を開ける。どうやら彼女には、自分の作っているものが偶像だの偽りだのと、これっぽっちも思っていないということらしい。
「そういうつもりで服飾をやってきたつもりは、ちっともないのだけれど、犯人にそう思われているのなら、悲しいことだわ」
 今度は本当に悲しげな顔をして、とし江
はため息をついている。
「ねえ、先生?少しお尋ねするわね」
「ええ、どうぞ」
「あのね、先生はそのスーツをお買いになる時、どのように購入なさいます?」
 突然そんなことを言い出したので、気楽も少し驚いたが、
「まあ、あまりお金もないので、オーダースーツなんて高値の花です。ショッピングモールのぶら下がりしか買えませんが、それが何か?」
「いいえ、それでいいのよ。その時、どうやって先生は自分に合ったスーツをお買いになる?ちょっと思い出してみて?」
「そりゃまあ、身長と体格と、胴回りとかそういうものを見て、合うものを買いますね」
「A体?先生ならまだお痩せになってらっしゃるから、Y体かも」
「ええ、A体もしくは、おっしゃるとおりYかYAがあればそれを買います」
 おほほ、ととし江は上品に笑った。
「そうでしょう?それってうらやましいことなのよ。これからもし、お太りになっても、今度はABがあり、Bがあり、と身長が同じで体重が増えても、スーツくらいは自分に合ったものを買えるでしょう?殿方は」
「ええ、そうですね。たしかにスーツ売場には、いろんなサイズが置いてあります」
「でもね」
 そこで、とし江は、少し表情を曇らせた。
「でも、女性はそうじゃないのよ。3・5・7・9・11と、既製品にはあまりバリエーションがないの。スーツだって、ふつうのファッションだってそう。女性の世界では、体に合わせて服があるんじゃなくて、服に合わせて体を変えなさい、ってことなのよ」
「……そう、なんですか」
 知らないこととはいえ、それは確かに大変そうだとも思う。
「では、気に入った服があっても、着られないってことに」
「そうよ。そうやって陰で涙を流してきた女性がたくさんいるの。だからね、わたしはそんな思いをさせたくないから、うちの会社ではできるだけ自然に体を預けることのできる服を作ろう、と思ってきたのよ」
 その声には、しっかりとした意志が感じられる。
「だからたとえ下着でも、ただ自然に任せるだけでもなく、既製品の服と擦り合わせができるのなら、どこを保持して、どこをゆったりさせればいいかまで考えて作らせているつもりなの」
「わかります。つまり、そうした女性のためを思っての下着を偽物だのと思われるのは、大変悲しいことだ、ということですね」
「ええ。先生、よくわかってくださるのね」
 とし江は思わず気楽の手をとって、両手で
ぎゅっと握りしめる。
 ここまで自分の仕事に真剣に取り組んでいる人が、自分で自分の作品を盗むような真似をするんだろうか、とも思えてきた。
「小さかったけれど、戦争も体験したし、そこから女性たちが本当に苦労してこの社会で生きてきたのも目にしてきたわ。わたしはこの服づくりでしか、貢献できなかったけれど、騙すようなつもりで仕事をしてきたことはなかったのよ、ね?わかってくださるでしょう?」
 こりゃあ、本当に、この人じゃなさそうだなあ、と思ってしまう気楽は、ただ人がいいだけなのだろうか?それでも、とし江の話は筋が通っているし、気楽自身にしても、イザヤ44章が本当に下着のことを指しているのか、それすら確証がないのだ。
 本当にこの事件はやっかいだ、と思った。みんなと話せば話すほど、まるでするっと逃げるように真犯人から遠のいてしまうのだ。
 じゃあ、聖書に一番詳しいはずのとし江ですら犯人に関係ないのだとしたら、いったい誰がミカエルを盗んだというのだろう。
 ほかに誰が、この物語の登場人物として、真の犯人として隠れているというのだろうか!

 八方ふさがりで投げだしたいような気持ちになっている気楽に、とし江は尋ねた。
「うちの社員たちには、聖書に詳しそうな人はいなかったの?」
「え、ああ、そのことですが」
 持っていたテスト用紙をテーブルに広げながら、
「一応、彼女たちの知識を確認できるようなテストを作りまして、記入してもらいました。もちろん、知っていることを知らないふりをしたり、迷ったりしたらそれをこちらが見つけられるように工夫しながら、書いてもらったんですが……」
「あまり、はっきりとした答えはなかった、ということかしら」
「そうです。ご明察の通り。彼女たちはあまり、キリスト教の知識もないし、それを隠しているそぶりも感じられませんでした」
 聞きながらとし江は、気楽の作ったテストをのぞき込んで、持ち前の少女のような天真爛漫さで思わず、
「まあ、とってもおもしろそうだわ」
と目を輝かせている。
「先生?わたしもやってみたいのですが、よろしいかしら?」
「もちろん」
 そこで、気楽は新しいテスト用紙をとし江に渡した。
「安土さん、そこの机のペンを取ってくださるかしら」
「ええ、社長」
 める子に渡されたペンを持って、嬉しそうに回答をはじめるとし江であった。
「まあ、学生時代に戻ったみたいよ」
とはしゃぎながら、書き進める姿を見ると、ほほえましくて思わずめる子と目を見合わせて笑ってしまう。
 だが、とし江が書きすすめたある瞬間に、気楽の目は、その答えに釘付けになった。
 停滞していた脳が、フルに動き出すのを感じた。
 そうか!そういうことか!もしかすると、そういうことだったのか!
 気楽は、自分の体がぶるぶると震え出すのを感じた。まさかとし江の答えが、今までさんざん悩ませたこの事件のヒントとなるとは、思ってもみなかったからだった。
 あるいは、すべての謎が解けたのかもしれない。
 あるいは、全くもって最初から、見誤っていたのかもしれない。
 根底から覆されるような衝撃が、気楽に走る。隣のめる子は、気づいていないが、これはきっと、正解への一筋の道しるべなのだ!と気楽は確信した。

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