【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

2-16 抱きしめた犬のこと

エピソードの総文字数=3,301文字

『驚いた。泥棒かと思うじゃないの。何やっているの、あっちゃん』
 耳のずっと奥のほうで、その声が聞こえたような気がする。

 家のキッチンだったのだと思う。篤志の記憶にわずかに残っている10歳以前の記憶だ。

 夜中で、暗かった。天井の照明とは違う、わずかな光。夏だったのに、顔にだけ柔らかく冷気が当たって心地よかった。

(ああ、冷蔵庫か……)
 そう思い当たった。

 あのとき、篤志は冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいたのだ。

『牛乳、飲もうと思ったんだ』
『牛乳? ダメよ、こんな夜遅くに冷たいものを飲んだらお腹壊すでしょう。喉が乾いたんなら水道のお水にしなさい。コップに半分くらいね』
『牛乳じゃないとダメなんだよ。ええと……』
 とっさに何か良い言い訳がないかと知恵を絞ったのだと思う。実際に何を言ったのかは覚えていなかったが、母親を納得させられるような言葉でなかったことは間違いない。
『いたずらっ子さん、何か、お母さんに秘密があるのね?』
 楽しげに弾んだ声。母親のほうこそいたずらっ子のようだった。

 その母親の表情が、篤志は今も忘れられない。幼いころから何度も繰り返し見たはずの表情だ。篤志がどんなに頑張って隠しても、すぐに秘密を見抜いてしまう。母親は……そういう人だった。

(でもあのとき、部屋で犬が鳴いて……)
 当時住んでいた家についての記憶は曖昧だが、集合住宅だった。犬や猫などのペットは禁止という規則があったのも覚えている。

 だがそんな規則は建前だけで、周囲では多くの家庭で猫や小型犬を飼っていた。ときおり、どこから抜け出してきたのか、犬や猫がうろついているのを見かけることがあった。そのまま、半ば野良犬、野良猫となってしまったペットも少なくなかったのだろう。

 あのとき篤志が拾ってきたのもそんな犬だった。薄茶色で鼻面の黒い犬。こっそり連れ帰って、部屋に隠していたのだ。

 篤志が自分でつけたのか、首輪に名前でもあったのか……そのへんの記憶は曖昧だが、名前は「カホ」だった。

(〈お母さん〉が部屋を覗いて、それから……何が起こったんだ、あのとき)
『篤志、どういうことなの? どうしてこんなことに……』
 部屋を覗いた母親が振り返ったときには、もうその顔にいつものいたずらっ子の表情は浮かんでいなかった。

 責めるような口調。

 何かおそろしいものを見たというように唇を震わせて、強張っていた表情……。

(〈お母さん〉は何かを見たんだ。俺も見たはずだ。それなのに……)
 そこで篤志の記憶はぶつりと途切れてしまっていた。

 その先にあったはずの出来事を、どうしても思い出すことができない。

 母親は犬を見て動揺したのではなかったはずだ。何か別のこと。もっと深刻な何かがあって、それであんなに……。

篤志、どうしました?
……!
 茂の声で篤志は我に返った。

 茂だけではない。英司や小霧までが篤志の顔を覗き込んでいた。

 篤志が放心したように過去の記憶を手繰っているあいだに、話はすっかり終わっていたようだった。

あ……ああ、悪い。
 つい立ち上がりそうになっていた。

 篤志の膝が動いたせいで、しがみついていた果歩が居心地悪そうに身を捩る。あやうくソファから転げ落ちそうだった。

 篤志は慌てて支えようと、果歩の頭に手を添える。

 柔らかい髪の感触がさらりと手のひらを撫で、篤志は心臓が鷲掴みにされるような衝撃を受けていた。

眠ってたんですか? 傷……痛みますか。
あ……いや、何でもねえよ。

ただ……。

 口ごもって、篤志はもう一度、おそるおそる果歩の髪に手を触れた。

 

ただ……何だよ?
(あのときも俺は、こうしてこの髪に触れていたんだ)
 英司の言葉など耳に入っていなかった。

 あのとき……腹をすかせた犬が鼻面を押しつけてて起こされるまで、篤志はこの感触を抱きしめて眠っていたのだ。

王牙を呼ぼうとしていたっていう妖怪連中なら……できたか?
 篤志は小霧をじっと見つめてそう小さく言った。
――大間団地にいたはずの俺の記憶を奪って、静岡のどっかで育ったなんて過去をでっち上げることが……。見も知らない夫婦を俺の両親に仕立て上げて、平然と別の場所で生活させるなんてことが……」
それぐらいのこと……。
小霧。
 言いかけた小霧を、茂が制した。

 茂は一歩篤志のほうへ歩み寄って、その方に手を置く。

思い出したんですか、ここにいたときのことを?
いや、そうじゃないんだ。

そうじゃないっていうか、俺がここにいたのは、多分間違いないと思うけどな。そういうことじゃなく……。

 記憶を手繰って、篤志は考え込んだ。

 だが改めて思い返してみると、それは記憶とは別のものであるようにも思えてくる。それを自分の過去だと、確かに実感できるわけではない。

 まるで他人事のように……夜中のキッチンで冷蔵庫に顔を突っ込む小学生の姿を俯瞰することさえできる。顔に当たった冷気の感触は本物だ。だがあのとき……冷蔵庫の中がどうなっていたのかは思い出せない。そこだけすっぽりとデータが失われたように、冷蔵庫の内部に関する映像が抜け落ちているのだ。

話しただろう、犬……拾ったときのこと。
は、犬?

何をいきなり……。

 いきなり何を言い出すのか……と、英司は眉を寄せた。

 だがその英司の素っ頓狂な声が、残る3人の沈黙に吸い込まれるように消えていく。

俺はあのとき、守ってやるって約束したんだ。

泣いてたから……。

 篤志は構わず続けた。

 また果歩が膝の上で小さく動いた。うっすらと目を開けて、篤志を見上げる。

 完全に目が覚めたわけではないようだった。まだ寝ぼけて夢の続きを見ているように視線がぼんやりと宙を漂っている。

拾ったのは、薄い茶色で鼻面の黒い……毛がもこもこしている犬だった。俺はどこかの広場でその犬を拾って、家に連れて帰った。自分の部屋に隠してたんだ。犬はおとなしく寝てたから、お袋には気づかれなかった。そのあと――いつもと同じように飯食って風呂入って寝たんだよ。布団の中に犬を入れてな。

でも夜中に犬が目を覚まして、寂しがってめそめそ泣き始めたんだ。だから俺はあのお伽話を聞かせてやった。頭撫でてやって、抱きしめてやって……いつも誰かがその犬にしてたみたいに。俺が守ってやるから虎が来ても大丈夫だって、何度も何度も繰り返して……。

それでも泣きやまないから、きっと腹をすかしているんだと思って冷蔵庫に牛乳を取りに行ったんだ。そのときにお袋に見つかって……。

待てよ。犬はめそめそ泣かないだろ。
 篤志がその言葉の先に何を言おうとしているのか、分かっていた。

 英司は助けを求めるように茂と小霧を振り返った。認めたくなかった。その篤志の言葉を否定する反応が欲しい。

 だがふたりの表情は静かなままだ。

 彼らもまた、篤志の言っている〈犬〉が何であるか、すでに気づいているようだった。

犬じゃ……なかったんだよ。
 喉の奥から、その言葉を絞り出す。
――あのとき抱きしめていた〈犬〉の感触を、俺は今でもはっきり覚えてる。指の間を細い髪の毛がすり抜ける感触を。俺にしがみついてた小さな指の感触も……。

それなのに……。

何度思い出そうとしても、そこに見えているのは鼻面の黒い犬だけなんだ。

 鼻面の黒い犬の姿なら、はっきりと思い出すことができる。確かに見たはずだ。

 だがそれはどれほど強い実感を伴う映像であっても真実ではないのだ。篤志の身体に染み付いた感触に勝るものではあり得なかった。

 指先が覚えている感触は、決して犬ではあり得なかった。

小さい……そう、まだ2歳か3歳の子供だ。

果歩って名前の……。

……。
 篤志の口にした名前に反応するように、果歩が目をこすりながら身体を起こした。

 掴んでいた篤志のシャツを離して立ち上がる。

 だがその果歩の身体を引き寄せて、篤志は強く抱きしめた。

おまえは覚えていたんだろう、ずっと。

俺の家で目を覚ましたときのこと……。

うん。
許してくれ。
 息苦しいほど強く果歩の身体を抱きしめて、篤志は言った。その声が、低く震えている。
俺はおまえを守ってやれなかった。あのとき、何があってもおまえを手放すべきじゃなかったのに……。

◆作者をワンクリックで応援!

4人が応援しました。

◆コメント欄は未記入でもOK! 公開されないのでお気軽に。

ページトップへ