橋で祈る ~夜の底を流れるもの~

4 こんなの私じゃない、と、だしまき卵に

エピソードの総文字数=2,593文字

 朝食にだしまき卵を焼くのは、結婚以来続けていた乃々花の日課だった。
 ラジオ番組のディレクター職は、言うまでもなく時間に不規則で、広告代理店の営業をしていた夫とは、平日の昼と夜の食事をほとんど共にはできない。だからせめて朝だけはと、パンよりも米を好む夫に合わせてごはんを炊き、作り置きのだし汁を使って味噌汁を調えた。
 おかずが市販の常備菜(じょうびさい)では味気ないと、新婚時代は魚を焼いたこともあったが、グリルの後始末は手間であり、できずにあわただしく出勤したら、帰宅したときに部屋にこもった魚のにおいにげんなりする。

 共働きの朝には香りの軽い卵料理が都合よい。
 それに気づいてからは、だしまき卵だ。目玉焼きに比べ、フライパンの(ふた)や黄味のこびりついた皿を洗わなくてすむのは楽であり、食べ飽きないのも魅力だった。
 ごはん、味噌汁、だしまき卵の三品を基本に、もう一品を海苔(のり)、納豆、漬物や梅干しといった常備菜でローテーションすれば変化もついた。
 夫婦二人だったら、それでじゅうぶん。
 しかも共働きにしては上々の朝食だったと乃々花は思う。
 沼津へくるまでは――。

 夫の母との同居では、乃々花は毎朝、異なるおかずを手作りした。そもそも“専業主婦”というものになっていたので、焼き魚や煮ものを作っても、後片づけをする時間はあった。夫の母が亡くなってからも、惰性でその習慣を続けていた。
 楽しかったわけではない。
 仕事を失い、ほかに考えることがなかったので、次に作るおかずはなににしようなどと家事に意識を向け、誤魔化(ごまか)そうとしていたのだ。頭を(ひま)にすると、仕事への執着が否応なくぶり返すから。
 
 こんなの、他愛のない愚痴(ぐち)だ。人に話す価値なんて、ない。
 そう考えていたのとは裏腹に、ひと言声に出すたび、胸が軽くなっていく。
 もっとたいへんなことで悩んでいる人、困っている人はたくさんいるというのに。
 たとえば今日、バッグをひったくった灰色の男のように。
 あるいはいま目の前で、黙って聞いてくれている「親なし、金なし、正規雇用の職はなし」の礼や、体の不自由な愛子のように――。

 どういうわけか今朝、乃々花はおよそ一年ぶりにだしまき卵を作った。
 バイトが早番で、その上ちょっと寝坊(ねぼう)して、時間にあせっていたせいもある。
 四角い卵焼き用のフライパンに、だし醤油を入れて溶いた卵を流し入れ、表面まで火が通ってきたら巻きながらフライパンの片方に寄せ、あいたスペースに残りの溶き卵を入れ、焼けてきたらはじめの巻きを転がして、外側に新たな層を巻きつける。形を整えたら、まな板にとり、長辺を四等分して皿に盛る。
 断面には一切れに一つずつの“の”の字がある。
 皿に盛られた四つの“の”の字が、いまの自分と重なった。

 旧姓で仕事を続けていた東京時代は、野々辺の姓を使う機会はほとんどなかった。だから気にしていなかったが、仕事を辞めて沼津へきて、自分を表す名が野々辺乃々花だけになってみると、本名なのに違和感があり、いまだに消えない。
「こんなの私じゃない」
 食卓でつぶやいた乃々花に、ごはんを口に含んだまま夫は言った。
「無理して働きに出なくてもいいんじゃないの。女なんだし」
 その瞬間、乃々花は()ぜた。

 一年と三か月前から、深部にこごっていたものが、急激に熱をもち、弾け飛んだ。
 なにを怒鳴ったかは覚えていない。
 たった一言だった気もするし、あらいざらいぶちまけた気もする。
 覚えているのはなかば(おび)えた夫の顔だ。
 口をだらりと開け、目を見開き、茶碗(ちゃわん)(はし)を持った姿勢でかたまっている夫を置いて、家を出てきた。
 そのままバイトに行き、あの橋を渡り、礼の家にいる。まったく、思いがけずに。

 ふう、と乃々花は力を抜いた。
 最後まで聞いてもらったおかげで、ずいぶんと楽になった。もしも途中で利口(りこう)ぶった口を挟まれでもしたら、その先を続ける気は失せていただろう。
 羽毛のクッションのように受け止めてくれた二人に、感謝した。
「お茶、ほんとにおいしかったです。ごちそうさま」
 カップを置いて立ち上がる。
「どこ行くの?」
 見上げる礼の目はまるで仔犬だ。
「どこって。どっか、駅前のホテル」
「家出じゃん」
 深刻さを吹き飛ばすような明るい反応に、乃々花は脱力してへたりこんだ。

「野々辺さんって」
「乃々花でいいわ」
「ん、じゃあ、乃々花さんってさ。おとなしい人かと思ってたけど……」
「なに?」
「なんか、いまのままじゃもったいないよ。ガンバ!」
 親指を立てた礼の肩を、差し出がましいと(いまし)める顔で愛子がたたいた。それから乃々花にメモを差し出す。
『うちでよければお泊まりください。もう少しお話ししたいです』
「でも迷惑じゃないの。無理に引きとめたりしたら」
 礼が愛子と乃々花を交互に(うかが)う。
「こちらこそ、ご迷惑じゃないんですか」
「いやそれはぜんっぜん」
 はいそうですと答えるはずはないけれど、わずかでもためらいが見えたら御暇(おいとま)しようと思って尋ねたのだが、そんなやり方で確かめたことを恥じ入るくらい、二人の態度は明快だった。

 そういえば、現金をあまり持っていない。
 いったん自宅へ戻り、カード類の入った長財布を持って再びホテルへ出かける手もあるにはあるが、なんだかまぬけだ。
 それに、わずかな間でも自宅に入って今朝のその後がどうなっているかを見てしまったら、あとには戻れない。つまり、「家に帰りたくない」と言ってぐずぐず悩んでいる、いまの状況には。
 一歩進めば、そこから次の一手を打たなければならなくなる。乃々花には――少なくとも現在の乃々花にはまだ――それがこわい。
「助かります」
 座布団に座り直し、頭を下げた。

 人のために祈ったことなど、あっただろうか。
 おそらく、ない。
 キリスト教については一般常識として知っている程度だが――それはすなわち、何も知らないということだったとあとになって知るのだが――乃々花は祈りといえば、自分の願いをかなえるためにするものだと思っていた。
 その夜までは。

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