【共幻社公式作品】ジャングルに虎がいる

1-20 始まりの場所

エピソードの総文字数=2,523文字

 百合が取り落としたカップから飛び散ったコーヒーのせいでテーブルの上はひどい有様になっていた。英司のシャツにもシミができていたし、ノートはぐちゃぐちゃ。すでにコーヒーが冷め切っていたのが不幸中の幸いだった。
ご……ごめんなさいっ。ああっ、どうしましょう。
………………いや、いいよ。
 英司は眉を寄せたが、さほど狼狽した様子もなくノートを手に取った。
 上に溜まったコーヒーをそのまま床へ払いのけると、お手拭でノートとテーブルをざっと拭いて百合を見上げる。
あんた、あの日大間にいたんだな。
 それは問いかけではなかったし、百合も答えなかった。
 だがそれで……英司には充分だった。
あんたの姪っ子……その果歩ってやつ。そいつ、今何歳だ? 大間の崩壊事故が起きた時、いくつだった?
そんなことどうだって……。
俺にとっては重要なことなんだ! 果歩は大間にいたのか?
 英司が机を叩いて立ちあがる。
 その語調の激しさに百合はたじろいだ。
……ちょっと、ちょっと待ってよ。
 百合はすっかり逃げ腰になっていた。メル友に惨殺された主婦のニュース、それに深夜サスペンスの猟奇殺人のシーンが次々に脳裏に蘇る。
 もはや自分の生命もここまでか……と、絶望的な気分がこみ上げてきてもいた。
やめろよ。
 だがその時、百合と英司の間に篤志が割り込んだ。
誰だよ、おまえ。
誰だっていいだろ。女相手にムキになるんじゃねえよ。
関係ないだろ、引っ込んでろよ。
か、関係あるわっ!
 睨み合うふたりに、今度は百合が割って入った。
 猟奇殺人は是が非でも避けたい展開だが、こんな場所でつかみ合いのケンカなどという事態もまた願い下げだ。
この人がフクスケくんのお友達よ。ええと、ダムで働いてて……。

そ、それに、この人もあのお伽話を知ってるって!

ダム……?
 篤志がぼそりと疑問を発した。
 もちろん、百合はそんな言葉は聞いちゃいなかったが……。
私がここに来たのは果歩を巻き込まないでって言うためなの!
あなたが何のためにあんなブログ書いたかか知らないけど、すぐにやめてって言うためでも……。
ちょっと待て、ダムってなんだ。
え、ええと……何? ダムのことなんて、私に聞かれても……。
 百合がけつまずくように言って篤志を見上げた。
 茂が約束の時間に少し遅れて店内に入ってきたのは、そのしっちゃかめっちゃかになった三つ巴の口論の真っ只中だった。
あ……ええと……。
何、どうしたの?
……?
 さらに、呆気にとられてドアの前に棒立ちになっている茂の背後から、由宇と果歩が店内を覗きこむ。

果歩、どうして……。
 百合は思わずへなへなと床に座りこんだ。
〈果歩〉……?
 英司は篤志に掴まれた手を振り払って、入り口の方へ目をやった。
 女の子ふたりが並んで立っている。どちらが由宇でどちらが果歩であるかを示すようなものは何もなかったのだが、英司にはそんなものは不要だった。
 すぐに分かった。
 英司がその子供を見間違えるはずなどないのだ。


 大間の事故直後。英司はあの子の手をひいて、瓦礫でいっぱいの現場を歩いていたのだから……。

見つけた……。
 丸っこい目で少し首を傾げて英司を見上げる表情は10年前とあまり変わっていないように思えた。
 名前さえわからぬまま英司がずっと探し続けていた……小さな女の子のままだ。

 英司は篤志や百合を押しのけて果歩に駆け寄った。あの時と同じように、果歩の手をつかむ。
  まるで爆発のような衝撃が店内で起こったのはその瞬間だった。

 店内の照明やカウンターに並べられたグラスが次々と吹き飛ぶ。足元をすくわれるような激しい震動。床が砕け散って暗闇の中へ落下して行く感触をそこにいた全員が味わった。
 どこまでが現実の感触で、どこからが錯覚や夢なのか分からない。だが全員が、落下して行くその到達地点を目撃した。

 そこにはぼんやりと青白い光に包まれて、ひとりの男が立っていた。長い白髪、赤い目……額には梵字を思わせる赤い文様が浮き出している。どこか現実感のない、奇妙な姿だ。
 男の足元には複雑な図形を幾つも書き連ねた魔法陣が描かれている。そして彼にとってもこの事態は想定外のことだったのだろう。驚愕に見開かれた赤い目が、じっとこちらを見上げていた。
あ……。
 青年の顔が見えたとき、百合はそう声を上げた。
 だが次の瞬間……。

 百合は確かに感じていたはずの落下から弾き飛ばされるように、真っ暗になった『てけてけ』店内の汚れたカーペットの床に叩きつけられた。

百合さん、百合さんなの? ……今の、何?!
 ぼんやりと光る非常灯を頼りに手探りで近づいてきた由宇が、百合の腕にしがみついた。その手もその声も、激しく震えている。
由宇ちゃん……? 怪我はない?

あ、ちょっと待ってね。灯りがあったはず……。

 ハンドバックの中をひっくり返すように探って、百合はキーホルダーにつけている小さな懐中電灯を引っ張り出した。
 その灯りで周囲を照らしてみる。
 店内に残されたのは百合と由宇だけのようだった。
 茂も篤志も英司も……由宇のすぐそばに立っていたはずの果歩の姿もなくなっている。
果歩っ! いないの?!



……果歩っ!

 テーブルも椅子もひっくり返り、至るところに割れたガラスの破片が散らばった店内を這うように進みながら、百合は果歩の名を呼び続けた。
いってぇ……。
 篤志は頭を押さえて立ちあがった。
 どこを何にぶつけたのか分からないが、身体のあちこちがひどく痛んだ。
畜生……一体何だってんだ。
 悪態をついて立ちあがった時、篤志はそこが今までいたはずの『てけてけ』店内ではないのだと気づいた。

 周囲は薄暗い。
 砂埃にまみれたペパーミントグリーンのリノリウムの床。ところどころ壁は崩れ、天井からは蛍光灯が壊れてぶら下がっている。広いホールだ。同じ形の合皮張りのソファがずらっと並べられ、その向こうには焼け焦げた壁……。
 壁には一枚の大きな油絵が飾られていた。
 ごてごてと飾りのついた額縁に切り取られた、遠いジャングルの光景。木々の影で獲物を狙って牙を剥く1頭の虎が、今にも動き出しそうにリアルだ。


 虎は、じっと篤志を見下ろしていた。

 いつか見た……あのときの虎と同じように。

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